このサイトは主に長山一夫の著書、仕入覚書を掲載するものです。
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第10章 その他

米(コメ)
江戸前握りすしのシャリ

すしネタとシャリとの絶妙な相性
 料理屋での日本料理のご馳走は三日続けると飽きが来る。献立の流れの中で、最後には米のご飯を食べるのであるが、そこに至るまでの料理に飽き、だんだん辛くなってしまうのだ。だから主婦達が毎日家族のために作る家庭料理は凄いのだ。手を替え品を替えて作られる料理は、多少の文句はあっても飽きもせず、その愛情の中で毎日美味しく食べつづけられるのだから。
 では料理屋料理と家庭料理の決定的な違いはナンなのであろうか。
 料理屋料理は、どちらかというと料理と酒を愉しむためのものが大半で、ご飯は最後にお新香と味噌椀でサット軽く食べるということになる。家庭料理はご飯を食べるためのお惣菜料理で、ご飯とお惣菜との量の比率が極めて適切、合理的なものとなっている。ご飯は少なくとも従の立場にはなく、時には対等の、さらには主の状態になっていることすらある。
 そしてこのご飯(米)とおかずの量の比率が最適で、今や日本の世界に誇る食べ物となっているものがある。江戸前握りすしである。
 当店でも、1週間から10日間位、毎日すしを食べに来てしまう人がたまにいる。凄い人では2年半もの間、当店の休業日とその方の不都合な日を除いてほぼ毎日、2本のビールと6貫の握りすしを食べ続けた旦那がいる。新橋のおでん屋さん、「お多幸」の旦那だ。すしは飽きないのだそうだ。戦前から戦後直ぐの頃まで、握りすしのシャリはかなり大きく、二口で食べないと口に入りきれないほどの大きさであったという。それがどんどん小さくなってゆき、おちょぼ口のお嬢さんや、粋なお姐さん、子供でも、軽く一口で食べられる大きさに変化していった。この一口の大きさになってきた頃、ちょうど日本経済は高度成長の真っ只中にあり、人々の懐具合も豊になっていった。まさにその頃にすしブームに火がついた。高級すし屋は企業の接待に使われ、さらに高級化していった。
 「ネタは大きく、シャリは小さく」が、高級店でのお客さん達の密かで自慢の合言葉にまでなったほどである。そして、大衆店、回転すしの世界でもネタとシャリの大きさのバランスがかなり良くなり、すしの旨さの大衆化に大きく貢献していった。握りすしがさらなるブームとなり、すし屋業界の活況は切磋琢磨と新たな発想を持った店の出現をもたらした。江戸前握りすしは、試行錯誤されながらも総体的には旨さの進化をもたらしている。日本人老若男女全ての間で最も人気のある食べ物になった。この旨さの人気の最大の秘密は、ネタと酢シャリとの絶妙な相性とハーモニー、ワサビと醤油による旨さの相乗効果によるものと思われる。
 では、江戸前握りすしの世界ではシャリはどのように扱われ、考えられているのだろうか。

シャリ温度の旨さ
 すしに使われるシャリは、単なる白米の銀シャリではない。熱々の炊き立てを飯切りにとり、各店独自のシャリ酢を合わせ、宮島(しゃもじ)で手早く切って行く。この際、宮島を立てるようにするのがコツで、シャリに酢を混ぜるのではなく、シャリを斜めに切るようにして酢を合わせて行く。やり過ぎるとシャリが崩れて粘ることになる。シャリは粒がはっきりと立っていなくてはいけない。渋団扇で大急ぎで少し熱めの温度にまで冷まし、御櫃(又はジャー)に取る。これがすしに握るとちょうどよい人肌の温度になるのだ。
 カウンターに座り、即席料理の最たるものである握りすしを愉しむ時、握りたてのすしネタが冷たく、シャリがまだ人肌温度にあるうちに食べると、うれしくなるような旨さに出合うことができる。かってあまり言われなかった温度の旨さだ。すし屋のカウンターに座るということは、最高の握りすしの旨さを愉しむことが出来るという大きな特権を手に入れたということなのだ。だから微妙な温度のあるうちに、潔く食べていくことが必要であり大事なこととなる。

旨いすしを握るために職人は何をするか
 握りは手早く手際良く、シャリは固からず柔らかからず。すしの姿は美しく。握りはちゃんと手で持てて、しかも口に入れるとホロリと崩れる固さに握る。巻物はシャリが固く締らないように、中の具をすっと抜く事が出来るほどにフワーッと軽く押さえ、かつ、きちんと巻き、海苔が湿気ないで、まだぱりぱりしているぐらいに手早く巻く。
 この握りと巻物の修行の最終目的は、カウンターで「立食のお好み」で食べるすしの美味さのためにあると言っても過言ではない。職人は常に顔には出さねども、もっと旨くもっと美味しく、もっと綺麗にもっと速く、さらに旨くさらに美味しくと、念じて握っているものなのだ。そしてすし屋の仕事の中で最も難しいのがこの握りなのであって、職人一生の修行となる。
 しかしどんなに握りの技術に熟達しても、シャリが最高状態でないと旨いすしは握れない。

握りすしに最高の状態のシャリ
 江戸前の握りすしでは、ネタとシャリとの旨さと、大きさのバランスが重要となる。
 春美鮨の握りは、戦後銀座を中心として一世を風靡した一見品の良い、シャリも小さいがネタも小さめのすしとは一線を画している。ネタもシャリももう少し大きめとなる。一握り一握りのすしの旨さを十二分に発揮させ、愉しむことが出来るからだ。だからネタもシャリも真剣勝負となる。この握りすしにはシャリは少し固めのほうが旨い。ネタとシャリとの旨さのバランスをほどよく崩し、ほどよく合わせてくれるからである。上顎と舌の間に挟んだシャリが、強く挟んでも簡単につぶれず、弾力の中で抵抗し、少し焦らしながら、やっと半分ぐらい潰れていくのが旨い。すしを口の中に入れると、最初はネタと醤油の旨さが主役となり、やがてネタとシャリとワサビとの融合の旨さとなり、最後にはシャリの旨さで締めくくるのだ。最後に少しずつ甘みと旨みと弾力のあるシャリ粒の存在が感じられ、数粒の噛み残しのシャリを余韻として噛み味わうことが出来る位の、しっかり粒の立っているシャリが旨い。このすしでは、ネタとシャリとがほぼ同等の主役になっているはずだ。この固さの旨さとは、シャリとしてはほぼギリギリの水加減の固さに近いところにある。チョット間違えれば芯が残ってしまう、ギリギリちょっと前の固さなのだ。だからこの固さを常に維持してゆくことは、常にシャリ焚きの失敗と隣り合わせにあると言ってよい。春美鮨はまさにこの時点での旨さを追求していることになる。これは使っている米が旨みと弾力性のある最高のものであるという自信がないと出来ない。失敗の許容範囲の広い、少し柔らかめのシャリでは握りすしの旨さが際立っては来ない。柔らかめでは、シャリがネタと一緒になって柔らかく粘りながら噛み締められてゆくことになる。一見、シャリとネタとが見事に融合して理想的なすしになっているように見えるが、実はそうではないのだ。このシャリでは江戸前握りすしの旨さの真髄を愉しむことは出来ない。しかし、世の中にはナンと柔らかめのシャリの多いことか。ずいぶん楽をしているすし屋の多いことか。

最高のいい米とは
 昭和40年前後、すし米の最高品としては宮城県産のササニシキの名がトップに上げられるようになっていた。昭和31年に育成の始ったコシヒカリは米の甘み、香り、粘り、旨み、噛み心地、喉ごし等の全ての点で一世を風靡していった。一方のササニシキも淡白な舌触りと味わいとで大きな人気を博していた。中でも江戸前のすし屋達がこのササニシキに大きく反応していった。ササニシキは水分が少なめで、炊き上げてすしに握る時、表面がべとつかず少し硬めで、米の粒が立った感じになるからである。だから江戸前の握りすしの米として最高の評価を博したのである。握りすしのシャリは柔らかくてはダメだし、さらに粘ってしまっては最悪なのである。
 コシヒカリ、ササニシキは共に栽培の時に病気に弱く倒れやすいという弱点を持っていたのだが、食味の点では最高の優良種であったのだ。
 しかし50年代頃からササニシキは次第に品種的に劣化し始め、弾力と旨みに欠けると言われるようになっていった。この頃から米にうるさいすし屋達は、またコシヒカリに傾斜して行くようになっていった。しかし、コシヒカリは旨い米なのだが少し水分が多く、すしシャリとしては必ずしも理想的ではないと言われる。表面が少しべたつく感じがあるのだ。ではどうするか。コシヒカリの表面のべた付きを解消するために、良質の水を使い、水加減に細心の注意を払う。研ぎ上げの時間、蒸らしの時間をいじっていった。長くしたり、短くしたり。
 3升だきの釜で2升の米を炊く。水加減は3分の1合単位で加減していく。そして固めほぼギリギリに勝負した米を炊いていく。この時発見した成功の最大の要因は単純だった。どれだけコシヒカリの最高の米を使えるかと言う事に尽きたのだった。産地、年度によりかなりの優劣の差がある。最高であればあるほど米の弾力性が、多少の水加減の誤差を旨さに吸収してしまうと言う事であった。
 だから最高の米を探し始めた。米屋さんと相談をしながら新潟、秋田、福島のコシヒカリを試していった。そして弾力性があって甘み、香りの良い旨い米として、福島県中通りから会津の米を使うことになった。これは当時、世間一般にはあまり言われなかったが、米屋とプロ達の密かな推薦の米でもあった。コシヒカリの最高峰としては、よく新潟の魚沼産のものをいう。しかし実質生産量と最終販売量との不可思議な大増加のギャップは、旨さと人気故にどうにも胡散臭かった。年間品質の安定供給を絶対必要とするすし屋の米としては落第であった。そしてコンスタントに中通りのコシヒカリを単味で使用することになった。

新米の扱い
 当店では、新米は早くても翌年の3月頃からでないと使い始めない。新米は水分が多く、どうしても柔らかめで粘ってしまい、冷めると固まってしまうからだ。一定の硬さに焚きあげても、お櫃の中で微妙に軟化してしまうからだ。だからいい古米の続く限り極力新米の使用を遅らせることになる。又、米は微妙である。同一生産者の同一の米で同時期に精米されたものでも、袋によって微妙に水加減が違ってくることがある。大気中の温度、湿度、保存状態によるらしい。或いは密かな混米によるのかもしれない。

有機栽培 天日乾燥米
 平成5年、友人に福島県の中通りにある伊達郡国見町、佐藤次郎生産の有機栽培、天日乾燥米を紹介された。いくら素晴らしい事をしていても旨くなかったら使うわけにはいかないのだが…。精米された見本の米を見て驚いた。白濁も割れ、ひびも全くなく、粒は中ぐらいの大きさに見事に揃い、水晶のように透明感があったのだ。当店の米屋さんも絶賛ものであった。焚いて食してみてさらに感動した。香り高く、甘みが強く、見事に弾力性があったのだ。早速玄米で送らせ、米屋さんで精米して使い始めた。いい米であった。しかし残念ながらこの米は当初、3ヵ月分しか手に入らなかった。そのため新米の使い始めを遅らせるためのピンチヒッターとしての役割を持つ事になった。今ではやっと6ヵ月分、低温倉庫に保管された米は、注文によって精米され、宅急便で送られてくる。生産量が少ないためで残念な事である。

シャリ酢
 すし屋は、精米された米を原料にして作られる透明な醸造酢、米酢を全ての仕事に使う。さらに醸造酢には酒粕で作られる粕酢がある。色が赤褐色であるため通称、赤酢と呼ばれる。戦前までのすし屋はこの赤酢を全ての仕事に使ったといわれる。赤酢は味が濃厚で甘みと丸みがあり香りも少し強めとなる。生臭みと癖のある「ひかりもの」をしっかりと味強く締めるにはもってこいなのである。しかし戦後になって、精米された米による透明な米酢と赤酢とを微妙に使い分けるようになっていった。戦前のすし屋のシャリ酢は赤酢と塩だけで作られていた。これを当然の仕事とし、今でもこの伝統をしっかりと受け継いでいる名店も多い。しかし、戦後の米の変化と専売公社のイオン交換によるしょっぱいだけの旨み欠如の塩の欠陥を補うためにシャリ酢に砂糖を加える店が増えていった。そして酢も赤酢から透明な米酢に移っていった。春美鮨では「ひかりもの」を締めるときには伊豆大島で作られる天然塩「海の精」とミツカンの赤酢「山吹」を使い、シャリ酢にはミツカンの米酢「白菊」と天然塩「海の精」と三温糖を使う。
 昔からの名店と言われる赤酢と塩だけのシャリ酢を使った店のすしは、シャリに赤褐色の色が付いている。僕にとっては少し濃厚であり塩みが強く感じられる。あまり言われない事だが、食後かなり喉が渇くことになる。塩分が強すぎるのだ。戦前と戦後、旨さのとらえ方は微妙に変化してきている。古い町の、戦前からの名店と言われる飲食店の味は僕にとってはほとんど全て味が少し濃厚であり、もっと悪い事には塩みが強すぎることが多い。シャリ酢に砂糖を入れる、透明な癖の少ない米酢を使うということは、今の僕にとっての旨さのとらえ方の一つなのである。

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海苔(ノリ)

三番瀬
 平成10年10月。東京湾内湾、船橋漁協の漁場域である三番瀬の埋め立て計画の延期が、千葉県庁より正式に発表された。埋め立てによる住宅の建設、ごみ処理場の設置、第二湾岸の建設等のあいもかわらぬ経済的発展のための破壊と、自然環境の保護、保全という大命題との拮抗の中で、日本経済の停滞、地盤沈下は、幸か不幸か、千葉県の財政にも大きな影響を与えた。大義名分はともあれ、結局は経済上の理由のために、余儀なく一時的に延期、中止されたのである。
 三番瀬は、船橋沖から市川沖にかけ、16ヘクタールにおよぶ広さを持つ浅瀬の潟である。
 かって、東京湾内湾は、何本もの大きな川の流入する遠浅の海であり、豊富な魚介類に恵まれた豊饒の海であった。しかし、昭和30年代から始まった、内湾の臨海工業都市化のための開発とは、日本では他に類を見ない、東京湾の理想的な遠浅の海の埋め立てによる土地の提供であり、その土地の埋め立てのための土は、さらに深場の海底の掘り起こしにより確保されたものであった。護岸の発生は、遠浅の海の消滅を意味していた。
 そうした状況の中で、唯一、奇跡的に残った内湾最後の浅場の潟がこの三番瀬であった。
 東京湾にとって、この三番瀬の浅場は、魚介類達の貴重な生息場であり、産卵場でもあり、海の浄化のための再生場にもなっているのである。そして、江戸前の海苔の最後の砦ともなっているのだ。将来、三番瀬の消滅があるとすれば、それは東京湾全体の生態系の破壊となるであろうと現場の良識ある漁師たちは声をそろえて言う。かつてのように開発による、一時的な補償金に目がくらんではならない。海は現在ある自分達だけのものではなく、将来の幾世代にもわたって継承され享有されていかなければならないのだから。

海苔の生産加工と全自動機械の導入
 昭和40年頃を境にして、内湾の漁村の風景が少しずつ変わっていった。晩秋から、春先にかけての海苔の天日干しの風景がなくなっていったのである。この頃、海苔作りの漁師たち(海苔を栽培し、製品に加工するのは漁師の仕事である。)は次から次へと、全自動の機械の導入に走っていった。機械は、厳しい冬の寒さの中での過酷な重労働の作業から漁師達を解放した。午前中の晴天の陽射しが必要であるという天日干しの条件は、雨天、曇天、天候の急変、さらには強風という天日干しの天敵ともいえる自然の気ままさとの闘いであったのだが、全自動の機械は、この闘いと時間のロスもなくしてくれた。
 さらに、牡蠣の貝殻で海苔の胞子を栽培する方法と、胞子の付いた網を冷凍にして保存するという画期的な方法の発見は、自然環境の変化と悪化とが、海苔の生産に与える決定的な打撃を大きく緩和させ、海苔の大量生産を可能にしていった。
 一台の機械を導入すると、小さな家内作業が、とたんに中小企業並みの生産量と体裁をつけることが可能となった。高性能の機械は、海苔の大量生産をもたらし、価格を廉価に安定させ、韓国産の安い海苔の登場の機会すら奪っていったほどである。
 だが、この機械化は反面、大きなものを失う結果となった。天日干しをしないことにより、海苔の香り、甘み、旨みを失うという結果をもたらしたのである。さらに海苔を機械で人工的に焼いてしまうことにより、炭で焼くことによる旨さの相乗効果まで失ってしまったのである。
 海苔は、天日で干したものを、炭で焼いたのが旨いのである。この自明の、食べ物にとって一番重要な事柄を大量生産、大量販売のために、なおざりにしてしまったのである。

昭和45年頃より60年頃までの春美鮨の海苔の仕入れ方
 昭和45年頃より、当店の海苔は、上野にある海苔の入札権を持つ海苔問屋の、優秀な担当者から仕入れていた。毎年全国の新海苔が出揃い、いよいよ二番、三番手の海苔が採れ始める12月の半ば頃に、その年の全国の海苔の作柄情況を教えてもらう。そして、各地の最高の海苔を並べ、比較しながら試食し、その年に使う海苔の産地と品質を決めるのであった。
 しかし、この45年頃には、すでに、ほぼ全ての海苔が、機械によって、全自動生産されていたのである。乾燥から、焼きまで全て機械で行なわれるようになっていたのである。
 だから、この頃のすし屋の大半は、海苔屋から、全自動の機械によってもうすでに乾燥され、さらに電気の熱によって焼かれた「焼き海苔」を仕入れていたのである。自分の店で焼くこともなく、ただそのまんま使っていたのである。使い勝手の良さがその全てであった。だから、天日干しの海苔と、機械乾燥の海苔との旨さの違いについてなどは、問題意識外の状態となっていったのである。かくして海苔の味は、大量生産、大量消費という時代背景のもとに、見事に変質していった。
 やがて、最近海苔が不味くなったという話を多々聞くようになった。原因は明白である。しかし、天日干しで作っている海苔は、既に全く手に入らない状況となってしまっていた。市場に流通している海苔の業界には絶無であった。だからもう天日乾燥の海苔の入手は諦めていた世界であった。天日干しの海苔は、幻の世界となっていたのである。
こうした全国的な海苔生産の変遷の中にあって、時代に流されず、自分の意地と誇りを依怙地に貫き通してきた漁師が、千葉県船橋漁協に一人、奇跡的に残っていたのである。機械化の波に流されず、旨い海苔を作りたい、旨い海苔を食べたい食べさせたいと、かたくなに天日干しに固執していたのである。船橋市海神在住の漁師、滝口喜一。海苔作りの名人である。

滝口喜一と天日干し海苔との出会い
 平成元年春先、水中カメラマン中村征夫氏による東京湾内湾の名ルポルタージュの好著「全東京湾」を読む。その本の中で、数人の漁師達の生き様と誇りが語られていた。その中に、無口で気難しく、口もきいてくれないのだが、いまだに天日干しの海苔を黙々と作っている頑固な漁師が登場する。
 ちょうどこの頃、僕は自分のやってきた仕事を総点検している時期であった。海苔も素材の点検の対象の一つであった。平成元年春先、その幻の天日干しの海苔が突然僕の前に現われてきたのである。驚きと期待の中で、さっそく問題の漁師である滝口喜一を訪ねていった。

千葉県船橋市海神 滝口喜一
 天気のよい日曜日の午後、先客があった。年配の夫婦づれである。「嗚呼、やっぱり商売人達がいっぱい買い付けにきているのだなあ」と、少しあせりながら話を聞いていると、5帖、10帖の話をしていた。海苔の知識もあまりない全くの素人さんであった。安心と共に、不安でもあった。年間700帖前後の使用量である。最高品質の海苔が、一定量、一定品質で年間を通して仕入れることが出来るのであろうか。これは春美鮨としては絶対に妥協できないことであった。
 僕の順番になり、自己紹介、使用目的の説明の後、二階の倉庫で海苔の点検をさせてもらった。饒舌なお母さんの説明を聞きながらの点検は真剣勝負であった。海苔は薄手で柔らかく、裏目はしっかりと立っていた。いい海苔であった。しかし、今僕の使っている海苔に比べるとかなりの相違点があった。まず、色艶が少し悪いような気がした。海苔の端がギザギザで綺麗に揃えられていなかった。海苔の束の中に割れが多々入っていた。天日干しでは海苔の割れの発生が多くなるという。しかしこれは、海苔の最終的な選別の悪さであろう。
 「焼くともう少し色艶は出てくるのだろうか? 焼いてみないと本来の味も香りの立ち方もわからないではないか」というわけで、収穫生産日の異なる、良さそうな海苔を数種類選別し、店で焼いて使用してから判断するということを了解してもらった。
 焼いている最中に、素晴らしい香りが立ってきた。口に入れると、焼き立ての海苔は、ぱりぱりと噛み切りが良く、溶けも良かった。見事に甘みがあった。海苔巻にしてみた。何本か巻いている最中に店中が海苔のいい香りでいっぱいになってきた。包丁を入れると、一瞬、さらに海苔の香りが強く漂ってきたのだった。
 海苔巻を食べてみた。口中に広がって行く海苔の香りと甘みは、シャリと干瓢にぴったりの相性であった。さらに柔らかく、噛み切りも良く、スーと溶けていった。なんという海苔なんだろう。しかし、今使っている海苔に比べると、どうも色艶がもう一つ劣っているのであった。しかしイイじゃあないか、色艶なんか。
 食べ物はなにをおいても先ず旨くなくてはいけないじゃあないか。このいい香りと、甘みはこれまでになかった素晴らしいものであった。この魅力の前には、色艶の見てくれなどは二次的な問題じゃあないか。これが僕の出した結論であった。うれしかった。海苔を炭で焼くのは久し振りであった。うれしい仕事の増加であった。お客さんの反応もうれしかった。
 こうして滝口喜一とのお付き合いが始まったのである。以来10年、2ヵ月に1度くらいの割で船橋を訪れる。海苔の話、内湾の魚介類の話、船橋漁協の話、三番瀬の話、内湾浄化のための秘策等々話題の尽きないことである。
 後に、海苔の色艶のことで滝口喜一とやりあったことがあった。船橋産の他の漁師の作った海苔ですら素晴らしく色艶の良い海苔があるのに、なぜ彼のだけが少々色艶が足りないのだろうか。その原因、理由をなかなか話してくれなかったのであるが、ある日、ポツリともらしてくれたのだった。原因は簡単であった。大量の水で海苔を洗い、艶出しの酵素(又は、薬品?)を入れて海苔をすくと、見事に色と艶が出るのである。滝口喜一はこの酵素の使用をいっさい拒否し、天然自然を最良としているのであった。この酵素・薬品使用が海苔本来の香り、甘みを相殺してしまっているということはないのだろうか。
 また、滝口喜一の生産した海苔は、船橋漁協及び、全国の海苔の入札の場には出てこない。彼の海苔は、公式の入札の場では、海苔の規格条件に外れているため、規格外とされ、2等級品となってしまうのである。全自動の機械の全国的浸透と完全制覇は、海苔の規格化を強制し、入札の現場では、その規格にのっとった海苔だけが入札されるのである。1枚の海苔の大きさ、1帖の海苔の重さ(これは海苔の厚さ薄さの規定ともなる)が規格化されたのである。かつて、江戸前の海苔は、よその海苔よりもサイズが小さく、かつ薄手であった。その伝統を守っている滝口喜一の海苔は、当然のこととして規格外であった。だから、滝口喜一も自分の海苔をあえて入札には出さないのである。

◎近年、市場で最高品質、最高価格の海苔として評価されている海苔は、佐賀県有明海、川副産の海苔である。海苔の栽培に最好適の、複数の河川の流入と遠浅の栄養豊富な海は、評価の基準となる色、艶、香り、甘み、噛みきりの具合が、総合的に素晴らしい海苔を育てている。プロの間ではこの地域の海苔が、最も高く評価されているのである。

東京湾 内湾の自然環境の変化、悪化と海苔栽培、漁業への影響
(1)海水温の常態的上昇。
(2)生活及び、産業排水の東京湾への大量放出への正式認可。
(3)台風による大量の雨水と、河川に取り付けられた堤防の開放による大量集中的な真水の流入による、海水濃度の低下。
(4)合成化学洗剤による湾内の汚染。
(5)重油の垂れ流し、タンカー座礁等、重油流出による汚染。
(6)流出重油の拡散防止のための拡散防止剤による新たなる二次的汚染の可能性。
(7)赤潮、青潮の不条理な発生。
(8)内湾再開発のための新たなる開発工事による環境破壊。
等、内湾は無制限に破壊されつづけ、汚染され、弱体化してきている。
 これらの要因は、東京湾内湾の全魚介類及び海苔の品質、漁獲量にも、見事に影響を及ぼしているのである。

平成8年
 海水温高し。新海苔の収穫される11月末から12月にかけ、赤腐れ病が発生。新たに冷凍網を張ったが、年内は強風にあおられ、時化のため不漁。総生産量激減。品質格差が大きかった。
平成9年
 海水温高し。11月7日、この前後、5日間ほど奇跡的に新海苔を収穫。他の漁師たちは全て赤腐れ病にやられ、11月20日から、28日にかけて海苔網を全面的に撤去することになった。その後、新たに冷凍網を張りなおしたが、芽が伸び始める頃、強風で飛ばされ収穫出来ず。やっと芽が伸び本格的に採れ始めたのはなんと1月15日頃であった。結局この年は、数量的には減少の憂き目を見、品質的にもあまり出来が良くなく、大不漁年となってしまった。
平成10年
 例年、彼岸の前後に、天然の「すさび海苔」の種を網につけるため、海苔しびに一番網を張るのだが、今年も水温が高く、10月1、2、3日に張ることとなった。しかしその後も水温が下がりきらず、他の漁師達は網に青芽の海苔やエボカキが入ってしまい四苦八苦したのであった。
 11月1日、海水温23度。本来この時期には19度位で、芽が伸び始める頃には14度から15度に下がっていなければならない。この23度とは、種付けの頃の温度であり異常に高い海水温なのである。10月3、4日に張った網は、台風によりひっくり返されてしまった。台風による大雨は江戸川の水位を大幅に上げ、水門の開放による大量の真水の三番瀬への流入は、海水濃度を大幅に下げることとなり、三番瀬のアサリが大量に死んでしまった。そしてその後、海苔は赤腐れ病と共に、白腐れ病も発生する始末であった。
 一難も去らぬうちにさらに又一難。次々と襲ってくる難題の中で漁師たちは懸命に収穫のために戦っている。11月1日時点での情報では、今年は昨年同様全国的に品質、漁獲量ともに不漁年となる見込みであるという。

◎例年の悪条件の中でも、滝口喜一は見事にいい海苔を作り上げていく。海苔作りは、長年の経験と熟練によるものであり、毎年異なる自然の諸条件の中で、創意と工夫を要求される。滝口喜一は、海苔作りの名人である。その名人が漁師の意地と誇りをかけて作っているのがこの船橋の天日干しの海苔なのである。

「すさび海苔」と「あさくさ海苔」
 すさび海苔…東京湾内に潮に乗って、流れてくる天然の海苔を採集し、栽培される海苔で、いわゆる「地」の海苔である。芽は幅が広くびっしりと生え、収量も多く香りが良い。少し硬いが丈夫で病気になりにくく、水質の悪化に強い。加工の際の扱いが簡単で色の出が良い。内湾(富津、上総、船橋、行徳)の天然の海苔は、全て「すさび海苔」である。
 あさくさ海苔…海苔幅が狭く、柔らかで伸びが速いが病気になりやすい。甘みは強いが、香りは「すさび海苔」にかなわない。栽培が難しく、波が荒いと芽が飛ばされてしまうことがあるため、三番瀬でも東京方面の波の立たない穏やかなところで栽培されることが多い。
 内湾では、「すさび」と「あさくさ」の両方の網を張るのだが、年によって両者の出来不出来は異なる。加工後では、両者の区別はつけにくいと言う。平成8年は両者共に良くなかったが、9年では両者共にまあまあの出来であったという。
 冷凍網…漁師は、天然に採集した海苔の胞子、芽を海苔網と共に漁協の冷凍倉庫に保存する。胞子、芽は冷凍しても死なないのである。冷凍網は、事故や病気が発生したときに大きな威力を発揮する。国内産の各産地の冷凍網は、各産地間で互いに取引きされる。外国産も高速冷凍で固めて輸入される。カナダ産は丈夫で腐らない。台湾産は、全国的に使用され、成長が良く、1枚の網で5回から10回の収穫をすることが出来るという。しかし、回数が重なるほど、海苔は硬くなり、香りも甘みも落ちて品質が悪くなっていく。

◎海苔の栽培で最も重要なポイントは、支柱柵に水平に張る網の高さをどの辺の高さに張るかということに尽きるという。これは長年の経験と熟練を要することであり、漁師それぞれのポジションが皆微妙に違うものなのである。海中では、黒芽の海苔が一番上層に泳いでくる。次ぎの層に青芽の海苔がいる。一番下にエボカキの層が流れてくるのである。だから、どの高さに張り、どの層をねらいのポイントとするかが重要な仕事になっているのである。しかし、水温が高いと、この三者がほとんど同じ高さで流れてきてしまうため、黒芽の中に、エボカキ、青芽が混じりこむ可能性が高くなり、網を張る高さの設定が著しく難しくなってしまうのだという。

 11月1日。滝口喜一は土手の高架下で、採集した海苔網の陰干しをしていた。かって経験したことの無い青芽の海苔の混入のため、陰干しによって青芽を殺しているのだという。普通、青芽が混じり、その青芽殺しをする場合、冷凍網にすると効率良く、青芽だけを殺すことが出来るのであるが、その場合、組合の冷凍倉庫代が加算されることと、又再度その冷凍網を張り海苔を採集する時に、最初の一番海苔が、赤くなる、赤芽となってしまうとのことであった。毎年毎年が新しい挑戦であるという。今年の海の状況と海苔作りもまた全く未知の世界であり、今年もまた一人の幼稚園生であり、一年生のつもりでやっていくしかないのだという。
 11月21日、遂に新海苔である、一番海苔を収穫。24日より好天に恵まれ、以後六日間連続して収穫する。柔らかい新芽の摘み取りは収穫量が少なく、1日500枚から600枚位である。散々の苦労と心配の結果、結局例年どうりの収穫日であった。現在、潮の加減で、網の張る位置を低くしているため海苔の伸びは良いのであるが、陽の目を見ないため、海苔の色が少しボケてしまっているという。

◎海苔は、色、艶、甘み、香り、噛みきりの要素の良否によって評価される。黒芽の海苔は色艶が良く、甘み、香りがあって旨い。青芽の海苔は、香りが良く、わざと黒芽の海苔の中に少し混ぜることもあるが、青芽だけの海苔は2等級品となる。赤芽の海苔は、柔らかく、艶が良い。甘み香りは黒と変わりはないといわれるが、みてくれ上見栄えが悪く、2等級品となってしまう。
◎一番最初に生え伸びてきた海苔は柔らかく、香りがあって旨い。一番海苔を摘んで加工された海苔は新海苔といって珍重される。しかし、採集される量は少ないため、希少価値も重なり貴重で高価なものとなる。二番目に刈られる海苔は、さらに甘みが出てきて実質的に旨いといわれる。以後刈られる回数が多くなるにつれて海苔は硬くなり、品質は落ちて行く。
◎最近市販されている海苔は、全て既に機械で焼いてある焼き海苔である。海苔は、炭火で手焼きにすると旨みが加重される。すし海苔の場合、一枚一枚丁寧に、ぎりぎりの強めに焼いてやると巻物にしたとき十分に旨みが発揮される。

 12月5日夜。今年の新海苔を愉しみに、滝口喜一を訪ねる。11月21日、初収穫。22、23日天候悪く休漁。24日より29日まで天気良く収穫続行。新海苔は色艶良く、しなやかに干しあがっていた。今年の「すさび海苔」はつらかったらしい。赤芽あり、黒芽の海苔あり、青芽混じりの黒海苔ありでいろいろである。11月1日に、網を土手の上で干し、青殺しをしていた海苔が出来あがっていた。24日収穫生産の海苔だった。青殺しは完全ではなく、青芽は少し残っていた。しかし、海苔全体はしなやかに柔らかく、色艶も良くできている。厚さ加減もちょうど良い。青芽が少し混ざるとさらに香りが増すという。今年の新海苔は、とりあえずこの24日産を追いかけて行くことにした。今年の生産量は、例年の半分にするという。少し、体を楽にして、いい海苔を作るつもりだという。
 漁師 滝口喜一、 71歳。
 海苔漁の後継者無し。最近、海苔漁の最中に、不覚にも寒中の海に落ちることがあると笑っている。あと何年漁を続けられるのであろう。一年一年が勝負である。一年一年が貴重で高価な日々である。一度止めてしまうと、道具の入手と、干し場の確保の問題で、再開は不可能であると言う。滝口喜一が漁に出られなくなっても、奥さんと娘さん達が、他の漁師の海苔を手に入れて、天日で干すことは続けられると言うのだが…。
 春美鮨は今、やがて消滅する運命にある、江戸前の最後の天日干しの海苔と、その名人技を持つ漁師とお付き合いしているのである。やがてくるその最期をしっかりと見届けたいと思う。     平成10年12月


平成16年1月16日
 今期、船橋漁協も含めて、愛知、三重、兵庫、有明海と今年の海苔は全国的に大不作の様相を呈している。有明海ではもう網を仕舞い始めた漁師もいると言う。
昨年の11月末、新海苔の入手の期待を込めての船橋行は、見事に裏切られてしまった。白腐れ病の発生であった。この10年来、毎年のように発生しているこの白腐れ病と赤腐れ病に対する漁協の対策は、他の網への伝染を恐れての、ただひたすらの海苔網の総揚げだけであった。
 だから、9月に張った網の海苔は全て撤去することとなった。滝口喜一が再度張った海苔網は10月26日と11月23日・24日であった。そして10月26日網の収穫日は12月28日から31日となった。この網が今年唯一、最初の新海苔の収穫となった。色艶良し、香りも高く、柔らかで甘みがあり、食い切り良し。最高の海苔であった。
  今回は100帖仕入れする。他の海苔網はほとんどが、不良品級となってしまったと言う。そして白腐れ病の他に、赤腐れ病までも発生、さらにその上に時化と天候不順のために、出漁の中止と天日干しの困難さが発生した。
  水温の変化に対応しての網の張る高さの位置決めが難しく、年明けには適温12から13度に対し、たったの9度と、極端な水温の低下のために一番クサを刈ったあとの二番クサが成長せず、皆流れ落ちてしまうという異常な事態の発生が続発した。連続する白腐れ病の発生は、漁協に保存されている冷凍網に付着された海苔の胞子が、もう既に白腐れ病に汚染されているのではないのだろうか? ともいわれている。
  滝口喜一はもう一度だけ網を張って、今期は終了にすると言う。艱難辛苦の中での、愈々の名人芸に期待すること大なり。

平成16年2月11日 再度、船橋へ
 本日は風もなく、晴天なり。新橋演舞場での藤原直美、中村勘九郎、柄本明による「空想万年サーカス団」の観劇の後、船橋へ飛ぶことにした。空想万年サーカス団は残念ながら失敗作であった。勘九郎の計算し尽くした過剰な演技による臭みが、少しも喜劇としての面白さに繋がらず、主役になるべく直美の出番は余りにも少なく、芝居の面白さを半減してしまっていた。

  11月28日収穫の前記の海苔は色艶良く、食い切りと溶け具合、甘み香り共に素晴らしく、最近では最高の海苔であった。しかし、この海苔には不都合な点が多々発生していた。
(1)余りにも割れ海苔が多く、焼きにくく、大量のロスが発生してしまっている。何故だ? 選別が悪すぎないか。
(2) 海苔の乾燥の具合が例年になくパリパリに干しあがっている。例年、新海苔の出来具合を比較するために購入する、山本海苔店の機械干しの最高級品と同じような状態となっている
(3) 備長炭で丁寧に少しずつ、きっちりと焼くと、海苔が微妙に縮れてしまう。

今期の収穫状況
 今期は12月28日から31日までの4日間と、1月には20日、21日、24日、25日、26日、28日の6日間。1月31日と2月1日は漉いた海苔を張る簾洗いを丁寧に行なう。簾に海苔の滓が残っていると、剥がす時に割れる原因となるらしい。
  この簾は、昔は刑務所の囚人が葦(よし)で作っていたらしいが、今ではもう国産品の入手が困難となってしまったと言う。中国産もあるが、海苔の剥がれ方が良くないらしい。2月は4日、5日、6日、9日だけしか仕事ができなかったと言う。時化、雨、風と病気の発生のためだ。とにかく大不作年の状況となってしまっている。

疑問(1)の答え
 海苔の割れの原因は、海苔が良すぎるためだと言う。芽が柔らかく旨みのある良質の海苔は、最高品であればあるほど、乾燥の途中で簾を編んである横糸に沿って「横切れの割れ」が発生するのだと言う。海苔の乾燥後の、簾から剥がす仕事は、滝口夫妻の二人が、熟練の技のもとに行なうため、その際にひび割れが発生することはないという。
  縦に割れるものは品質が良くない海苔だが、二等品、三等品の海苔になると、逆に割れが発生しないのだそうだ。割れの多発は、最高品である証明なのだと言う。しかしそれでは、選別が悪いことになるではないか。
  12月、1月、2月の、収穫日全ての海苔を点検してゆく。12月28日産は、他の海苔と比較しても、ことさらに最高の海苔であった。29日は等級A、30日・31日AB。年が明けてからの海苔の出来は残念ながら決して上出来なものではなく、ABからB級のものであった。今期、春美鮨ではこの12月28日産を最優先して使用してゆく。
  収穫枚数は1,200枚位だと言う。昔は1日2,000枚から3,000枚の収穫が在ったらしいが、最近ではせいぜい1,200枚から1,300枚位の出来となっていると言う。生海苔の収穫量の減少と滝口夫妻老齢化による生産効率の落ちも大きな原因となっている。
疑問(2)の答え
 今期、雨が少なく、空気が異常に乾燥しているせいらしい。しかし、滝口喜一の海苔を使用して以来、これだけの乾燥の強いものは始めての経験ではないだろうか。
疑問(3)の答え
 新海苔の草が柔らかく、良質のため、強めに急激に焼くと縮まるのだそうだ。
 5月に梅雨越しの前に焼く火入れを今の段階でやってしまう手もあるのではないか。とりあえずは、何時もよりも少し甘めに焼くことにする。
 海苔の栽培にとって、天気が良いことだけではだめで、雨・風・台風等の自然のサイクルも重要な要素となり、それによって海が浄化され、養分も豊富になるらしい。
 7月から8月にかけて行なわれる室内栽苗では、網に付着させる海苔芽の収穫の時期が早すぎるのではないか? 今期、室内栽苗の段階で、既に白腐れ病に汚染されてはいないか? との懸念のなかで、滝口喜一の、海から採集する天然のすさび海苔は、病害と環境の変化に強靭で、室内栽苗のものだけを使用する漁師達の羨望の的となっている。しかし、これから張る滝口喜一の網も、天然すさび海苔のものはもう使い切ってしまっていて、全て室内栽苗の冷凍網ものとなる。冷凍網の習性で、黒芽海苔も、初回、赤芽海苔となってしまうことになる。

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「真妻」の山葵(ワサビ)

 すし屋の職人が、板場の中でワサビを下ろしはじめると、それだけで、お客さん達は「凄い」とうれしくなってしまうらしい。それくらい本物のワサビには日本人にとって憧れの的のようなところがある。これはワサビがあまりに高価なので、本物のワサビは高級店でしか使えない、だから料理もきっと旨いに違いないと言う、うれしい期待感があるからなのだろう。
 ワサビは日本料理で使われる色々な香辛料の中の花形である。日本料理の献立の中で、メインとなる刺身や、江戸前すしとの相性にはことさらに良く、最高・最適の香辛料となっている。
 
すし屋が山葵を使うのは
 ワサビの話になるとき、まず第一番に話題に上るのはその効能である。曰く、生臭みを消す。曰く、殺菌力がある。曰く、あの痛烈な辛みが大人の味覚にピッタリなのだ。
 しかし、すし屋がすしを握るときに、いちいちこンなことなど考えてはいない。しっかり下ごしらえされたいい魚は生臭みなんかほとんど残さないものなのだ。極論すれば、いい醤油さえあればすし、刺身はそれだけでも美味しさを楽しむことが出来る。そしてそこにいいワサビがあれば、さらにも増して美味しくなると言うわけである。そしてすし屋の職人は、各々のすしネタに対して、ワサビの量を最適量に加減し、旨さを念じながらすしを握っているのである。

香辛料としての特色
辛み

 ワサビの辛みは独特だ。一瞬、鋭く舌をさす刺激はさっと口中に広がり、そのあとすぐに鼻腔の奥に張りつくようにしながら、さっと鼻の先へ抜けて行く。質、量ともに、ちょっと刺激の強かったときには、さらに眼の奥にまで上り詰め、じわっと涙を滲まさせるのである。(これはすし屋がワサビのことを、符丁で「なみだ」と言う所以である)
 こうして鼻先へ抜けていった鮮烈な辛みは、そのあと、いっさい舌や口中には残らない。この残留しないと言う性質がワサビの最大の旨さの特色となる。刺身、すしの旨さは繊細で微妙だ。一切れ一切れ、一握り一握り、じっくりと、それこそ息を潜めてでも味わう楽しみの価値がある。この時、舌や口中に前の香辛料が残っていては、新たなる味わいの邪魔になるのである。
 辛子を例外として、唐辛子、山椒、胡椒、生姜等は、全て舌、口中にその刺激と旨みを残留させてしまうのである。他の香辛料とワサビとの決定的な違いがここにある。

甘みと香り
 しかし、ワサビの旨さはこの辛みの強さにだけあるのではない。いいワサビには辛みと共に、品の良い甘みと、爽やかな香りがある。これこそワサビの本当の旨さであり、特質なのである。それゆえにいい魚をさらに旨くさせる絶妙の香辛料となるのだ。
 下ろしたてのワサビには、痛烈な辛みの中に、かすかな苦みが混じることがある。しかしつかの間、さっと揮発し、消失してしまう。その瞬間、緑におおわれた渓谷の爽やかな風のような香りと共に、苦みが魔法のようにさっと甘みに転換し、魚の旨み、甘みをさらに増幅させてくれる。

種類
 ワサビは大別すると「真妻(まづま・赤茎)」と「実生(みしょう・青茎)」に分類できる。
(1)「真妻(赤茎)」
 茎は、深く濃い緑色をし、葉の付け根の部分は赤っぽく、臙脂(えんじ)色をしている。成長が遅い(「実生」は1.5倍ぐらい早い)ため、身質は良く詰まり硬い。表面の成長の年輪であるぶつぶつは小さく、びっしりと間隔狭く、ラセン状に揃って並んでいる。辛みの中に、十分な甘みがあり、爽やかな香りを持つ最高品種のワサビである。
 ワサビの中でも、この「真妻」が特に旨いのであるが、栽培は非常に難しい。1本のワサビの母体から採れる分根の苗種はたったの2本。苗種は環境への順応性に乏しく、涌き水でしか栽培できない。産地による品質のばらつきも多い。病気の発生も多く、さらに成長も遅いため採算が採れにくく、近年特に栽培が激減してきている。もともと高価なワサビであるが、さらに高価なものとなってしまっている。ワサビ漬け、花ワサビのお浸し等、ワサビの加工品は、本来「実生」で作られることが多いのだが、「真妻」を用いるとさらに旨くなり、辛みも強くなる。
(2)「実生(青茎)」
 茎(いも)、葉の付け根、すりおろしたワサビの色、共に青白っぽい。成長が早く、少し水分が多い。成長の年輪でもある表面のぶつぶつが大きく、その間隔は広い。身質が柔らかいため、おろして行くとすぐに減ってしまい、使いでがない。辛みは強いが、ワサビ特有の甘みと香りは、「真妻」と比較すると、かなり欠けるところがある。
 花が咲いた後の種からの栽培は比較的簡単なため、全国の産地で積極的に栽培されている。品種的には、遺伝的な劣化が早く、品種のばらつきも目立つ。成長が早いために経営上の採算効率が良く、安定しているのだが、値は「真妻」と比べるとかなり安価となる。長野県(信州)は「真妻」の栽培の環境条件に適合せず、この一帯で栽培されているワサビは全て「実生」である。
(3)バイオによる「真妻」の登場
 「真妻」種の病気の多発性、環境への否順応性、成長の遅速性等による採算の悪さを解決するための、画期的な栽培法である、バイオによる「真妻」種が登場してきた。
 バイオによる栽培とは、一種のクローンの見本みたいなものである。最優良のワサビ(当然「真妻」になる)を選ぶ。その1本の母体からは数多くの分根の苗を採ることが可能となった。バイオでの苗は純潔で雑菌、ウイルス等に全く汚染されていないため、成長過程での病気が少なく、遺伝的な劣化や退化もしていないため、生命力に満ち、成長が著しく早い。バイオの苗は自家栽培のものよりも遥かに高価につくが、前記の長所により、真妻の栽培は、バイオによるものが著しく多くなってきている。しかし、純潔で若く、生命力に満ちているということは、必ずしも旨さの品質には結びつかないところがある。
 その成長の早さは、「実生」に見られるような身質の柔らかさを生み、少し水っぽく、本来の上質の「真妻」に比べ、甘みや香りが少し劣るようである。バイオによる種苗の種類は、200種以上もあり、それらの「真妻」の品質は多種多様である。現時点では、バイオによる「真妻」は、本来の上質の「真妻」と「実生」との中間種の位置を占めているようである。


 ワサビは、初秋の頃より身質が締り始め、旨みが増してくる。旬の最盛期は晩秋から冬にかけてで、辛み、甘み、香り共に強くなり、粘りも出てくる。2月頃にはもう花をつけ始め、3月、4月には次々と花を咲かせ、それと共に身質を落として行く。
◎ワサビの名産地は、中伊豆(湯ヶ島、天城、冷川)と御殿場である。かっての、栄光の名産地である中伊豆は、今でも生産量は日本一で、「実生」「真妻」「バイオ種」とも栽培している。最近、特に最高品質の「真妻」を出荷している御殿場農協では、「真妻」「バイオ種」と共に、今でも栄光の「真妻の原種」を保持し出荷している。
◎「実生」は「真妻」より栽培効率が良く、経営的にも旨みが大きいため、栽培業者は「実生」を大量生産する傾向が強い。さらに「実生」の葉茎は、「真妻」のものより速く大きく成長するため、ワサビ漬け加工業者への原料販売が大量に出来、大きな儲けとなる。
◎ワサビの値段の格差は凄い。ピンからキリまでの差はキロ単価で、なんと4倍~5倍。職人が下ろしているワサビの全てが凄く、旨く、高価なわけではないのである。さらにその下に、本生ワサビ、さらにその下に粉ワサビがある。しかし、世界で最も高価な香辛料であるワサビの最高級品でも、個々の使用単価は、たかが知れているのであるが、トータルで見ると大変な額となるため昨今の不景気の中で、築地の青果市場では御殿場産、最高級の「真妻」の入荷が激減していると言う。値が出ないので、産地農協では築地市場へよりも京阪神へ優先的に出荷してしまうことが多いと言う。
◎ワサビの品質格差と、旨さの違いは、極めて微妙であるが、価格面では大きな差となって表れる。しかし、その微妙な違いを贅沢に採りこんでいくのが本当の美味の世界なのである。品質の下降見直しは、バブル崩壊後、仕入れ原価を下げる最も手軽な方法と考えられ、多くの店々によって、安易なターゲットとされてしまっている。

山葵と醤油
 醤油は極めて味が濃厚で、香りの高い調味料である。片やワサビの旨さは非常に微妙で、醤油と出会うと、辛みはもちろんのこと、その甘みも香りも、全て醤油に負けてしまうことになる。だから刺身を食すとき、 ワサビは醤油に溶かず、常に魚の上に乗せ、魚に醤油をつけるようにすると、少しの量でもワサビの味を100パーセント楽しむことが出来る。ワサビを醤油に付けるときは、ほんのチョットつけるようにしたほうがよい。
 江戸前すしの握りは、ワサビを理想的な状態で使っていることになる。ネタとシャリの間に入れて握るからだ。だからワサビが醤油にジャマされずに旨いのである。だからすしは旨いのである。だからいいワサビを使えばそれだけ魚の旨さ、甘みが大きく増すというわけなのだ。
◎ワサビは効き過ぎても野暮だが、効かなければもっと野暮だ。脂の多い魚には、たっぷりと。脂の少ない、貝、烏賊、白身等には少々加減して使うと、ほどがよくなる。

 春美鮨は、静岡県、御殿場の産地栽培業者と直結、産地直送により「真妻」の最高品種であり、さらに身質の最も充実している年代とサイズのワサビ(2年~2年半物で、1キロあたり、12本~14本サイズ)を手に入れている。
 当店の「ワサビ巻き」を食べてほしい。刺身につけるワサビをそっと舐めて欲しい。最高品質の本物の「真妻」ワサビの旨さとは何か…。 十分に味わって欲しい。     平成10年9月

※ 山葵(ワサビ)の殺菌効果
 ワサビの中にある酵素の一種が、活性酸素を生む性質があり、その活性酸素に殺菌力があるのだそうだ。オキシドールは活性酸素そのもので、揮発性が強く、揮発しながら菌を分解し、殺傷してゆくのだと言う。    平成14年6月26日

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「梅錦」日本酒(サケ)

出会い
 昭和52年5月。たまたま手に入った6本の日本酒、「梅錦」が、僕の日本酒の世界を根底から変えてしまった。
 当時、「梅錦」の名声は、呑ん兵衛たちの間ではかなりの評判になっており、酒呑みとしては、一度は飲んでおかなくては、話にならないと言った感じの酒であった。但馬杜氏、阿瀬鷹治氏の名声。「梅錦」の先代社長である、利き酒の天才山川由一郎氏の評判。全国清酒鑑評会で、昭和40年以来、その最高位の金賞を12年連続受賞していること。全国新酒鑑評会でも金賞の、幾たびもの連続受賞。等々、数々の賞を総ざらいにしていると言う話。昭和50年、当店のすぐそばにある、日本橋の酒問屋、「岡永」を中心に、各地の地酒の名門蔵元たちが集まり、本当に旨い酒を、良心的に造り、日本酒の新しい世界を流通させていこうという組織、日本名門酒会ができたこと。その中に「梅錦」が入っていること。「梅錦」はそのルートでだけ販売されているらしいということ。等々、「梅錦」に関する色々の情報が断片的に入ってきていた。しかし何か縁がなかった。アプローチが足りなかった。日本名門酒会の流通ルートである、加盟店の酒屋さんさえ探そうとしなかったのである。
 ある時、シェル石油のお客さんが、愛媛県松山市に転勤することになった。
 嗚呼、「梅錦」の地元ではないか…。今度は「梅錦」のほうから僕に接近してきたような感じであった。ここでやっと僕の反応が始まったのである。お客さんに半ダースの購入、送付をお願いした。後日、「梅錦」の特級酒「秀峰」が店に届いた。薄い金色地の中に、さらに濃い金色で「梅錦」と染め抜いたラベルでの、華やかな登場であった。

鮮烈な衝撃
 好きな徳利と惚れこんだグイ呑みをひっぱりだして、さっそく呑ってみた。当然ぬる燗の燗酒である。あの時の驚きは、今でも鮮烈に覚えている。「ナンなんだこれは。この酒を本当に旨い酒だとしたら、今まで飲んできた酒はナンだったンだろう」。この時は心の底から、うなってしまった。この「梅錦」の特級、「秀峰」の6本は、誰にもおすそ分けもしないで、全て自宅に持って帰り、毎夜呑んでいった。うーん、旨かった。旨くてショックだった。まろやかな香りが素晴らしかった。芳醇な旨さが信じられなかった。毎夜、仕事を終えてまっすぐ帰宅、直後すぐの午前2時ごろから2合前後を呑った。しかし、朝の仕入れの時にはもう酒気は全く残っていなかった。二日酔い全くなし。この酔い覚めの良さはナンなのだ。僕の酒は、呑んでいる時は愉しく、酒にも滅法強いほうなのだが、どう言うわけだか多々、翌朝にまで酒を胃の中に貯金してしまう傾向のある酒だったはずだ。

疑問
 ある時、残った酒は煮酒にしているのか、と女房に訊いて、驚いてしまった。前夜の呑み残しの燗冷ましを、再度お燗をして、しっかりと呑まされていたのだった。これはショックだった。呑ん兵衛が燗冷ましの酒に気がつかないなんて…。そんなことがあり得るのだろうか。二日酔いなど日常茶飯事、酒の上の失敗は、もう数知れず。量も呑んできたが、ありとあらゆる種類のアルコールと、日本酒を呑んできた栄光の呑ん兵衛を自認してきたのに、たかだか燗冷ましの酒に気がつかないなんて…。そこで色々と実験をしてみた。その結果、「梅錦」という酒は、今まで呑んできた、あるいは又、店で使ってきたどんな酒よりも、はるかに一枚も二枚も上手であることがわかった。「梅錦」は燗冷ましの状態でも充分に旨さを保っていたのである。燗をし過ぎて、適温を過ぎてしまっても、ぬる燗の状態に温度が戻ってくると、旨さと、香りが瞬時に又、戻ってくるのである。ナンなんだろう。これはどういうことなんだろう。
 学生時代から数えると、20数年間もの間飲んできた日本酒の世界であったが、実は、日本酒について、ナンにも知っていないことに気がつかされたのであった。

追求(Ⅰ)
 やがて、吟醸酒、純米酒、本醸造、一般清酒、等の存在を知った。吟醸酒が、酒造りの杜氏たちの求める理想の酒であり、究極的な酒であることを知った。純米酒こそが、かって、日本で延々と造られてきた本来の酒であるのを知った。そして本醸造の切れ味と、飲み口の良さを知った。僕との衝撃的な出合いとなった、特級酒の「秀峰」は本醸造酒であった。それまで呑んできたほとんど全ての日本酒は、なんとただの一般清酒だったのである。
 当時、身近には、日本名門酒会に加盟している酒屋さんは一軒もなかった。それほど加盟店の酒屋さんが少なかったのである。たまたま日本橋東急百貨店で売っているのを見つけ、3日と明けずに通い始めた。なんと、この昭和52年は、「梅錦」がはじめて東京での販売を開始した年だったと言う。幸運な偶然の二度目の出合いがあったのである。
 最初、「梅錦」の特級酒「秀峰」を買い求めていった。しかしこの酒は、当時継続的に入手することがなかなか難しい酒であった。そして相変わらず毎日、感嘆しながら呑んでいった。毎日飲んでいるうちに、この特級酒は、芳醇濃厚で、あまりに旨すぎ、呑んべえの僕が、少々呑み過ぎると口の中に、チョットもたれるのかな、と感じるようになっていった。その旨さゆえに、主役の料理を差し置いて、脇役から主役の座に踊り出てしまう傾向があると感じるようになっていった。そして毎夜少しずつ酒を呑み残すようになっていたのである。
 そこで「梅錦」の代表的純米原酒であり、通称「黒ラベル」として人気の高い「酒一筋」を呑み始めた。酸度が高く、アルコール度数も1度ほど高い、非常にキリッと、しっかりとした辛口の原酒であった。この酒を、燗をして呑んでいったのである。しかし、なぜか呑んでいて寛げないのだった。旨さを感じるが、燗酒を飲んだ瞬間の、全身から力が抜けていくような、気持ちの良いくつろぎ感を味わえないのであった。なぜか硬く、緊張した感じが抜けないのである。
 さらに本醸造「つうの酒」を呑み始めた。芳醇で、口当たりが良く、旨み十分でありながら、甘辛中庸であり、さらに切れが良く、呑み過ぎても、もたれてこない。この酒は、僕の嗜好にぴったりの酒であった。この本醸造「つうの酒」は、呑んべえの僕にとって、運命の女、イヤ運命の酒との出会いとなったのであった。少量呑むことによって旨さが生きる酒もあるが、この酒は4合、5合と呑んでも呑みあきず、旨い酒だったのである。
 この酒は、「梅錦」の多々ある種類の中でも、ベストセラーの酒であるという。後になって知ったのであるが、この本醸造「つうの酒」は、地道に積み上げられていった地酒ブームの中で、その牽引車の役割を果たした、日本を代表する本醸造酒であるといわれている。
 この頃、日本橋東急だけでは品揃いが間に合わず、渋谷店にまで通うようになっていた。店では、本醸造・特級「秀峰」、純米酒「酒一筋」、本醸造・1級「つうの酒」、と3種類を平行して使っていったのであるが、最終的には、本醸造「つうの酒」だけを専門に使ってゆくことになった。僕の一番好きな酒であるからだ。小さなすし屋の個性なんてものは、その親父の味覚にぴったりのものを、どれだけ頑張って揃えられるかにかかっているのだと思う。その意味では、「つうの酒」は僕にとって、本望の酒であった。

本醸造酒と燗酒
本醸造酒

 後年、日本酒造組合の仕掛けた、吟醸、純米酒ブームの中で、吟醸酒、純米酒こそが本物の酒で、本醸造酒は醸造用アルコールを添加した亜流の酒である、というような言われかたをしていることが多々あった。実際、多くの呑み助達が最近、そのように信じ込んでいる例を多々見聞きしている。しかし、これは大きな誤解である。本醸造酒は、旨い酒を造るために、杜氏達が長年の間に工夫努力した大変な知恵の結晶なのである。
 吟醸酒の中にも本醸造吟醸酒と、純米吟醸酒とがあるのであるが、醸造用アルコールの添加は、手抜きのための方法ではなく、味を整え、香りをたたせるという、あくまでも旨さを造るための高度なテクニックなのである(だからその添加量は厳密に限定されている)。その結果、日本酒を少し安価に提供することが出来るという、おまけまでつくのである。醸造用アルコールは、サトウキビなど、種々のものから造られるのであるが、「梅錦」では、その旨さのために、米から造った醸造用アルコールを使用している。醸造用アルコールの使用量は、酒造組合の自主基準により一定量以下の使用に規制されているのであるが、「梅錦」では、吟醸酒、本醸造酒の種類により、さらに使用量を少量に規制し、旨さを創ることに役立てているという。
 本醸造酒の旨さ、素晴らしさを再認識してもらいたいものである。

燗酒
 日本酒造組合及びマスコミが仕掛けた、「旨い酒は『冷や』で呑むと旨い」と言う、ワインブームにあやかった酒の飲み方の流行らせ方は間違いだったと思う。
 最近、あちこちの飲食店で、燗酒を頼むと、「この酒は冷やで呑まないと美味しくないです」というセリフを聞かされる。ナンでこんなことになってしまったのだろうか。日本酒は、燗酒にすると、その酒の旨さ、本性がはっきりと現われる。旨い酒は益々旨く、ダメな酒はそのダメさ加減が明確に滲み出てしまうのである。吟醸酒だって純米酒だって燗をしていいじゃあないか。燗をして酒を呑めると言うのは、日本酒の最たる素晴らしい特性であるはずなのに。こんなセリフを言う店に限って、本物の酒呑みを満足させる酒を持っていないことが多い。日本酒を、ワインのような流行のファッションにしてしまっては可哀想だ。日本酒をガラスの器で呑むなんてなおかつ可哀想ではないか。
 「いい酒を燗酒で呑む」と言う世界には、大きな愉しみがある。ちょうど良い、最高の温度の燗酒に出合ったときの最初の一杯の旨さ。じっくりと口の中に広がってゆく、ぬる燗のぬくもりと旨さは、その日一日の仕事の緊張感を、ゆっくりと溶かしてくれる。人生至福の一刻である。
 当店で燗酒をお客さんに供するときは、先ず徳利とグイ呑みをお湯で温めておく。次ぎに、酒を入れたチロリを燗付け器の中に入れ燗をする。チロリの底に左薬指の腹をあて、温度の確認をする。温度は50度。この温度を「絶対に美味しい燗の温度」として当店では、「絶対の燗」さらに略して「絶っ燗」と称する。酒を温まった徳利に注ぐ。さらにお客さんは、温まっているグイ呑みに酒を注ぐ。温度はそのまま、50度である。
 好きな徳利と、ほど良いぐい呑みでやる燗酒の愉しみには、日本の美術工芸品の世界を愉しむ喜びも潜んでいるではないか。いい友、いい女にそっと酌をされる、心のこもった燗酒の旨さには、しみじみとした人恋しさがあるではないか。さらに、燗酒をやっていると、ちょっぴり旨い肴が欲しくなってくる。日本料理にはぴったりの相性の酒なのである。そこには、日本の食文化を愉しむ世界が待っているではないか。だから僕は大の燗酒党なのである。意固地に、頑固な中年の燗酒党なのである。

樽酒「梅錦 本醸造 つうの酒」との出会い
 かくして、本醸造「つうの酒」にはまって数年、店に見える酒呑みのお客さん達と一緒に、「梅錦」を愉しんでいたのだが、ある日、結婚式のお呼ばれがあった。そして、その披露宴の鏡割りに、「梅錦」の4斗樽の菰っかぶりを使いたいと言う相談があった。面白いじゃあないか。天下の美酒、僕の惚れこんだ「梅錦」が、樽酒になったらどう変化してくれるのか。どう旨くなってくれるのか。これは楽しみだ。場所は帝国ホテル。出席者は老若男女、100名弱。出される酒は「梅錦 本醸造 つうの酒」の、4斗樽の菰っかぶり、ワイン、シャンパン、ビール、ウイスキー、他。尚、樽酒の手配のお礼に、残った樽酒は、全て僕にくれると言う。これは上等な条件である。結構毛だらけ猫灰だらけであった。

感嘆
 乾杯の音頭の前に、司会者に天下の美酒、「梅錦」の説明と宣伝をしていただいた。そして乾杯。僕達の丸テーブルには、つわものの呑んべえ達が6名。「梅錦」の変貌を楽しみに、固唾を飲んで升を飲み干した。
 一瞬の沈黙。嗚呼、なんと旨いんだろう。おもわず全員でにっこり。そして、うなってしまった。嗚呼、なんて旨いんだろう  「梅錦」が、よくぞこういう変化をしてくれたものだと、感謝感謝、感動感動であった。披露宴は、2時間余続いた。樽の中に残った僕の酒は、なんと約3分の1強。4斗(40升)樽の3分の2もの酒が呑まれてしまったのである。出席者全員、他の諸々の酒も飲んだであろうに。たったこれだけしか残してくれなかったのである。
 翌日、帝国ホテルへ樽酒の残りを引き取りに行った。この時の帝国ホテルのサービスは凄かった。残った酒を全部新しいビニールの袋に入れ替え、なおかつ前夜の樽に入れておいてくれたのであった。その時にはその意味が判らなかったのであるが、味が変わらないようにとの細やかなサービスであった。そのお陰で、感動の味を維持することが出来たのである。
 この酒は、さすがに他の呑んべえ達にも少しおすそ分けし、それから毎夜、毎夜、ひたすら燗酒にして飲んだ。呑むたびに、うなってしまった。この樽酒の旨さはナンなんだろう。この旨さは、「梅錦」の旨さと樽の醗酵の香りがちょうどいい具合のところで融合し、さらに新しい酒の旨さを生み出したのではないだろうか。僕は、昔から樽酒が好きで、樽酒が飲みたいときには、「藪」か「砂場」へ行って呑んでいたのだが、この旨さにはちょっと記憶がなかった。
 ではこの旨さの融合の条件はナンなんだろうか。

追求(Ⅱ)
 この旨さは「梅錦」の樽酒特有のものなのであろうか。樽酒は、樽の中で、刻々と味を変えていくはずだ。樽酒の醗酵の過程の中で、最高の状態の、一瞬の酒だったのではないか。だとしたら、その最高の旨さの樽酒は、どの様にして変化して、どの様にして造られたのだろうか。
 さまざまのことを考えた。気候、温度、輸送、経過時間、樽酒の杉の木のこと。杉の木の「アク」のこと。いろいろと考えたのであるが。結局、「梅錦」の蔵元へ電話をすることになった。蔵元は、樽酒の注文が入ると、先ず桶屋さんに樽を注文する。次に、その新しい樽に何回も水を入れ替えて、樽の素材である杉の木のアク抜きをする。杉はかなりアクの強い木なのだそうだ。そのアク抜きをされた樽に注文の酒を入れる(昔とは違い、入れる酒は生酒ではなく当然、加熱処理された酒である)。そして出荷される。蔵元が樽酒に対して行うのはたったこれだけのことだけであった。
 つらつら考えるに、いつも蕎麦屋で飲む樽酒は、その時によって、樽の香りと味に、多少のばらつきを感じることがあった。樽の香りの極端に強い時と、逆に樽香は少ないのだが、舌を刺すような味と刺激臭のあることがある。これは、酒が樽の中で刻々と変化してゆくからなのではないのか。では、樽の中でどのような変化をしてゆくのであろうか。
 これは実験してみるしかない。きっと面白いことが判るのではないだろうか。善は急げだ。さっそく「梅錦」に、「本醸造 つうの酒」の4斗樽を注文した。

樽の中での酒味の変化の過程の発見

 蔵元で出荷された樽酒は、2日後には配送されてきた。さっそく味見をした。樽詰め後、3日目の樽の中は、まるでセメダインの匂いのような独特の強い香りが充満し、杉のアクの香りでいっぱいに満たされていたのである。セメダインの味とはかくや、というばかりの刺激が舌を刺した。たかが1日から2日の蔵元でのアク抜きでは、杉の木のアクは抜けきらないらしい。
 4日目、5日目、強烈なセメダイン臭は一向に消えない。見事に舌を刺してくる。6、7、8、9日目、まだセメダイン臭は強烈であった。10、11、12日目、徐々にセメダイン臭が消え始めてきた。しかし、まだ舌を刺してくる。13日目、まだホンの少し、微妙に刺してくる。
 14日目、遂に来た。馥郁とした、いい香りの樽酒が出来あがっていたのである。セメダイン臭が全く消え、「梅錦 つうの酒」の旨さをたたえながら、微かに心地よい杉の樽の香りと、微妙なバランスの中に旨さを感じさせる樽酒独特の渋みをも乗せて、あの披露宴の時の感動の味がよみがえってきていたのである。
 15日目、嗚呼旨い。16日目、もう微かに杉樽の芳醇な香りが少し強く勝ってきていた。この感動の樽酒の微妙なバランスが崩れ始めてきたようであった。17日目以降には、明らかに樽の香りが強くなり、いわゆる普通の樽酒の味になってしまった。「梅錦」の旨さの特性が消されてしまっていたのである。そのため大急ぎで、出入りの酒屋さんに1升瓶を40本用意してもらい、全てビンに移し替えたのだった。

14日目
 14日目が勝負の日だったのだ。この発見の再確認のために、さらにもう1本4斗樽を発注した。やはり14日目であった。やった  遂にやった  この樽酒の味は追いかけて行くしかない。以後当店では、この樽酒の旨さを、徹底的に追いかけてゆくことになったのである。
 14日目の旨さを採るために、前もって40本の空の1升壜と栓を酒屋さんに持って来させ、3回水で洗い、逆さまにして水を切り用意しておく。味が決まったときに、速やかに移し替えられるためにだ。又、仕事が一つ増えたわけだが、味見と味を決定する試飲の仕事は、意気の揚がる楽しみな仕事であった。
 この14日目は、季節と、その他の事情によるのだろうが、1日から2日のずれを生じることがある。また、蔵元では、5月頃から夏場にかけては、樽酒の酒は傷みやすいため、原則として樽酒を出荷しないのだそうだが、当店の樽酒の旨さの捉えかたを承知の上で、協力していただくことになった。一年中、樽酒が使えるようになったのである。
 後日、こんな話を聞き、実験してみたことがあった。「昔の酒屋さんは、同じ樽を何回も使ったものだ。樽に入れておけば、みんな同じ味の旨い酒になってしまうからだ。」 そりゃあ、樽代だって馬鹿にはならない。1級酒が、特級酒の値段になってしまうのだから。だから、やってみた。一度使った樽に壜詰めの「つうの酒」を入れてみた。何日たっても味が決まってはこなかった。昔の話は、真っ赤な嘘で、僕の目指している旨さの世界の話ではなかった。しかしこの時は、参った。40升の酒を無駄にしたのである。しかもその後、この使い終わった空き樽の処分に困り始めた。1月に2本から3本の量である。お望みのお客さんにもさし上げたのであるが、4斗樽はあまりにも大きく、返品されることも在った。今では、益子の陶芸家、吉川水城氏経由で、益子の陶芸家の方々の漬け物樽として愛用されている。

平成10年状況
 平成3年、第三春美鮨の店舗改装の頃には、この樽酒は大好評で、たくさんの呑んべえのお客さん達の舌を虜にしていた。1ヵ月に4斗樽3本をこなすようになっていたのである。しかし1ヵ月に120本の1升瓶を洗い、味の決まった樽酒を、ポンプで壜に移し替え、店の3階の倉庫へ運び上げると言う過重な仕事となった。さらに店舗改装の設計上の事情で、4斗樽を店に置くスペースがなくなってしまった。そこで「梅錦」の蔵元、山川酒造さんに虫のよいお願いをした。この樽酒の旨さを、蔵元で採っていただけないだろうか…。社長、山川浩一郎さんに協力していただき、蔵元でこの仕事をやっていただくことになった。その際に、面白い現象が起こった。蔵元で採ると、14日目では味が決まらなかったのである。結果的には、さらに約2日間の時間を要し、約16日目に採ることになった。
 2日間の時間差の原因はナンなのだろうか。思うに、酒を樽に詰めてから輸送し、樽の中で酒がゆすられるのと、蔵元で樽に詰められ、そのまま冷暗所に置かれ、静止しているのとの差ではないだろうか。当初、味が微妙に決まらず、樽を毎日ゆすってみてくださいなどと、無理な注文をしてみたこともあった。
 又、味決めのための試飲をしてゆく過程で、新たな再発見もあった。「日本酒は、春先に出来あがった新酒が、夏を越し、晩秋になって「古酒」の状態になると、がらりと味が一変し、旨くなる」という、酒の世界の常識を、身をもって体験したことであった。近年、日本酒の世界での最大のイベントとなってしまっている、吟醸酒のための全国新酒鑑評会の審査が5月に行われるというのは、どういう事なのだろうか。また、審査の結果得た、金賞、銀賞の受賞酒が、審査のためだけの酒であって、一般には全く市販されてはいない酒であるのに、受賞の蔵元の一部が、その受賞を全ての酒の宣伝に使っているのはどういうことなのだろうか。
 とにかく、それ以来、春美鮨の樽酒は、天下の「梅錦」の蔵元で、新しい衛生的な壜に詰められ、きっちりと光り輝く王冠をはめられて出荷されてくるようになった。この樽酒は、「梅錦・本醸造・つうの酒」が使われているのであるが、春美鮨の特注品であるため、壜には「梅錦・つうの酒」のレッテルは張られていない。僕の惚れこんだ、春美鮨自慢の、栄光の「無印・壜詰・樽酒」なのである。

 昭和63年。「梅錦」は原料処理場を全面的に新しく造りなおしたのだった。当時、酒飲みたちの間に、妙な噂が流れ始めた。
 「『梅錦』は酒造場を大増築し、遂に大量生産に乗り出した。だから、酒が不味くなった。」 
 この噂は許せないではないか。そんなことがある筈がないじゃあないか。一度、惚れた酒の現場を見てみたかったのと、事の真相を確かめるためもあって、平成2年秋、愛媛県・川之江市にある「梅錦」の蔵元を訪ねて行った。

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(株)梅錦山川 行
       愛媛県川之江市金田町金川
                平成2年11月

課題
 昭和63年、「梅錦」が原料処理場を新たに大きく造り直した。その目的はナンだったのだろうか。これは、「梅錦」ファンにとっては大きな期待であったのだが、いっぽう、非難の対象にもなったのである。他人の足を引っ張り、あるいは又悪口を言うことによって、自分の能力を誇示しようとする人達が、その内容も事情も、結果さえも全く知らずに、ただただ一方的に言う「梅錦」への非難に対しても、明確に回答を示し、納得させる必要があるではないか。

梅錦の沿革
明治 5年  初代山川由良太により、川之江に創業。
昭和 9年  全国清酒品評会にて、第1位入賞。
   40年 全国清酒鑑評会にて、最高位(金賞)を受賞。以来、12年連続受賞。
   52年 杜氏、山根福平着任。
   54年 雑誌「特選街」の日本酒味くらべ・きき酒テストで、特級酒が1位、「つうの酒」が2位となり、上位を独占。
   56年「特選街」で、日本酒日本一を選ぶ味コンクールで、純米原酒「酒一筋」が第1位となる。
   63年「特選街」日本酒きき酒コンテストで、「純米大吟醸」、「白眉」がそれぞれ第1位となる。
        全国清酒鑑評において、19回目の最高位(金賞)を受賞。
平成 元年 「特選街」日本酒コンテスト今年のうまさ№1で、「究極の酒」が1位となる。
   8年 全国新酒鑑評会において23回目の最高位(金賞)を受賞。
「特選街」でのコンテストは、晩秋の11月に、夏を越した古酒を対象として行なわれている。コンテストの審査は、吟醸酒部門、純米酒部門、本醸造酒部門の3部門別で、数々のいい地酒を世に出すコンテストとなり、日本酒の愛飲家達に大きな影響を与えたものである。これらの華々しい実績と、栄誉ある勲章の数々を担って酒造りをする名門の「梅錦」が、大量生産に走り、酒を不味くしているなんて、そんな噂を信じられるであろうか。

「梅錦」行
 平成2年11月末の連休を利用し、高松空港経由にて、川之江市在の「梅錦」を訪ねた。「梅錦」では、もう杜氏達が蔵入りをしていて、酒造りが始まっていた。会長の山川由一郎氏、社長の浩一郎氏のお出迎えを受け、その後、原料処理場、酒造場の案内と説明をしていただいた。真新しい木の匂いがまだ残っている原料処理場を案内されながら、新造の理由を説明していただいた。

梅錦の姿勢と回答
◎新造の最大のコンセプトは、手づくりの良さを最大限に生かし、旨い酒を造るための最大限の条件を作り出すことであった。そして力仕事の部分は機械化して、無駄な労力を省き、軽くすることであった。
◎製麹は全て蓋麹法。それも木製の小蓋で行う。そのために広いスペースが必要となったのである。
◎吟醸酒も、普通2級酒も同じ造り方、同じ手づくりで造る。酒のランクによって造り方に差があってはならない。商品は、原料米の良否、精米歩合の高低で差をつけるべきである。
◎各種原料米は、それぞれ精米の度合い、方法に万全の注意を払い、白米枯らしの日数を調節する。蒸し米も、独自の工夫により、品種に合わせた多様な蒸し方加減が可能となった。これらの考え方は、精米、洗米など、「梅錦」の酒づくりの全ての工程にとりいれられていると言う。
◎全ての人が、「旨い」と言う酒は造れない。全ての点で、「旨い」酒なら造れる。
◎日本一の精米をし、米を白くする蔵になりたい。
◎「幻の酒にしたくない」と言う誠実な謙虚さと、実力に裏打ちされた誇りは、「梅錦」のモットーである。
◎最近のマスコミ達が騒いでいる諸々の「幻の…」というセリフには、往々にしてある種の胡散臭さが付きまとう。「幻の…」は極々の希少価値と、付加価値があるからなのであろうが、生産者がその名に満足してしまったら、そこにはもう何の進歩も発展もないではないか。物作りの現場では、常により良いものに対する挑戦であり、追求であって、「幻の…」と言われたら、それはもう敗北宣言したようなものなのである。
◎平成元年度、「梅錦」の酒づくりの蔵人には、名杜氏、山根福平氏を筆頭として、なんと杜氏経験者は、15名に上るのである。この万全な態勢を見て欲しい。旨い酒を造りたいという意欲を見て欲しいではないか。
◎昭和63年は、日本経済の高度成長の真っ只中にさしかかった時期であり、日本酒の将来、人手不足による生産性の問題などをも含めての新造であった。

商品別品質一覧表の明示
 「梅錦」は平成元年の時点より、発売している全ての種類の酒の品質一覧表を明示している。そして平成10年現在では、全ての酒の壜にその酒の品質一覧表を添付している。だからその表を見れば、その酒の甘辛、濃淡をある程度類推することが出来る。平成元年度と8年度との表を比較してみると、かつての濃醇辛口、淡麗辛口の傾向から、淡麗辛口、淡麗甘口の傾向に徐々に傾いているように見られる。僕が呑んできた純米原酒「酒一筋」、本醸造吟醸酒・特選「秀峰」、本醸造吟醸酒「つうの酒」も徐々に数値が変化し、明らかに、淡麗辛口の酒へと移行してきているように見える。
 「梅錦」の酒は、良く甘口であると言われる。最近の辛口ブームの中で、その響きは、往々にして非難めいた響きを持っている。しかし、平成元年度当時、「梅錦」から発売されている酒の種類は、18種にも上るのである。その一つ一つが、それぞれに微妙な違いを持って造られているのである。濃醇もあれば、淡麗もある。甘口もあれば、辛口もある。しかし、日本酒度、酸度、アルコール度による数値の上での判断によれば、純粋に甘口の部類に入る酒は、たったの2種しかない。これらの言い様は、数ある「梅錦」の酒の中の、どの酒を呑んで言っているのか判然としない。意外とこの重要なポイントを承知せずに話していることが多いのではないだろうか。では何でこのような数値上の味覚と、実際の味覚上の「ずれ」が生じるのだろうか。「梅錦」は、濃醇な旨みのある酒を造ることを目指している。この濃醇な旨さは、甘さとは異なるのである。だが、その違いを識別できない人々はこの素晴らしい濃醇な旨さを、甘さと錯覚してしまうのである。「梅錦」は、甘口だと感じられたら、本望だ、ともいうのである。

「梅錦」の製造法の種類 
「梅錦」の日本酒の製造法は5つの種類に分けることが出来る。
 (1)純米種、(2)、本醸造酒、(3)純米吟醸酒、(4)本醸造吟醸酒、(5)普通酒 
 平成元年に発売されている18種の酒は、純米酒、本醸造酒も含めて、普通酒の2種と、本醸造の「白眉」の3種を除いた他の全ての酒は、実は、吟醸酒の条件(精米歩合、手造り)を踏まえた酒であり、そして18種の酒、全て手造りである。
 僕の惚れこんだ「つうの酒」は本醸造酒でありながら1級認定の酒(平成2年現在)で、他の蔵元たちが発売している1級認定の「一般清酒」とほぼ同じ値段で売られているのである。さらにこの「つうの酒」は、本醸造酒でありながら吟醸酒の条件のもとで作られた「本醸造吟醸酒」であったのである。1級酒レベルの値段の酒にも、「全ての点で、旨い酒なら造れる」と言うコンセプトを誠実に実行しているのである。かくして、僭越ながら、「梅錦」の誇りと健在さを再確認してきたのである。
 日本酒の世界は、味を愉しむ能力さえあれば、手ごろな値段で、十分に旨い酒を選び、呑むことが出来るのである。酒呑みにとっては、値段の高い吟醸酒、純米酒だけがベストとは限らないのである。
 僕が、「梅錦」に出会ってから、平成10年の今年はちょうど20年経過したことになる。この間、日本酒の世界は大変革の時代を迎え、乗り越えてきたのだと思う。かつての大メーカー一辺倒の世界から、地方の良心的で旨い地酒が、呑んべえ達の舌を捕らえ、主役の座を占めるようになってきたのである。激しい競争の中で、益々いい酒が生まれてきている。しかし、この間も、僕の酒の味覚の主軸は常に「梅錦」であり、その出会いを幸運だったと思っている。

◎最近、日本酒の銘柄の、流行り廃りが激しいように感じられる。特定の人達が、あるいはマスコミが話題にし、とりあげて評判になった酒が、すぐに流行の波に乗ってしまう傾向がある。呑んべえ達が、皆すぐに右向け右をしてしまうのである。日本酒は今、最も恵まれた時代に在るといわれる。多種多様の日本酒が、素晴らしく旨い酒たちが、それぞれの個性を持って、百花繚乱のかたちで並び揃っていると言われる。さらに、一つの蔵元でも様々な味の酒を造っているのである。いろんな酒を呑んで欲しい。いろんな酒の素晴らしさを知って欲しい。自分の味覚にあった酒を探し出して欲しい。人の好みはそれぞれ皆微妙に違うのだから、自分の好みにぴったりの酒を見つけ出すことのできた人は幸せだと思う。人が皆、全員旨いという酒などあり得ないのだから。そして、自分流の流儀で呑んで欲しい。酒の好み、呑み方は、千差万別、勝手にやればいい。くれぐれも流行に流されて損をしないように。いい出会いを願っています。

清酒の表示に関する自主基準
吟醸酒
 精米歩合が60パーセント以下の白米を使用し、いわゆる吟醸づくりをした清酒(純米又は本仕込に限る)でなければ吟醸、吟造等「吟」の文字を使用した用語を表示してはならない。
純米酒
 米、米麹及び水を原料として製造した清酒でなければ純米醸造、純米、純粋等「純」の文字を使用した用語を表示してはならない。
本醸造酒
 醸造アルコールの使用量を一定量(白米1トン当り120リットル)以下とし、かつ醸造用糖類を使用しない清酒でなければ本仕込、本造り、本醸造等「本」の文字を表示してはならない。
原酒
  上槽後加水しない清酒でなければ原酒の文字を使用してはならない。
手造り
 甑(こしき)、麹蓋(麹蓋に代わる箱を含む)を使用し、生もと系又は速醸系酒母を造り製造した清酒(純米または本醸造に限る)でなければ手造りの表示をしてはならない。
生一本
 自醸酒(純米に限る)でなければ生一本の表示をしてはならない。

 平成10年10月18日(大安)、蔵人総数五十数名(昨年度は最終的には57名に及んだ)、内杜氏経験者10名。山根福平杜氏のもと、いよいよ「梅錦」は本年の酒造りに入った。     平成10年11月

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「地」玉子
あさひ村 大松(おおまつ)農場のたまご(千葉県旭市鎌数1274)

アトピー性皮膚炎等のアレルギー反応を起こさない玉子

 15年も前、「病院で、アレルギー反応を起こさない玉子として、優先的に採用されている美味しい地玉子が、千葉県旭市にある。」とお客様に紹介された。
 しかし、春美鮨にとって最も重要なことは、この玉子が本当に美味いかどうかという事であった。いくら素性の素晴らしい玉子でも、美味さの点で優れていないのでは話にならない。当時、当店の玉子焼きの玉子は、築地市場から仕入れられていた。青森県から送られてくる、大量生産品の玉子であった。この話のあった、ちょうどその頃、地玉子の良いものを欲しかったのだが、もう一つ勉強が足りず、行動も伴わず、あれこれと迷っている時でもあった。
 早速見本を送ってもらうことになった。
 …美味かった。見本の赤玉玉子の黄身は見事に甘く、白身も今までのものよりも、はるかに盛り上がっていた。ヨシ!! 生玉子を醤油でとき、熱々のご飯にぶっ掛ける。生玉子のぶっ掛けご飯だ。これぞ生玉子の美味の、経験から割り出した究極の検査方法なのだ。美味い美味い、甘い甘い。ぷっくりと盛り上がった黄身は見事にとろりとし、こってりとした甘みを持っていた。その玉子は、千葉県旭市鎌数の大松農場出荷のものだった。以来15年、大松農場の実態も知らずに時が流れ、長いお付き合いとなっていった。しかし、大松農場とは如何なる農場なのであろうか?という興味と疑問は、常に心の中に潜在していた。

平成14年11月3日、館山の洲崎へ定置網を見に行く。
 翌4日、早朝から漁港へ行くも、先週からの台風並みの強風により、海は大時化、定置網漁は一切行われず。洲崎漁協及び周辺の漁協は全くの無人であった。
 急遽予定を変更。旭市の大松農場を見学することにした。もう15年も前から取引をしている農場だが、たまたま行きそびれており、今回は絶好のチャンスとなった。
 電車の乗り違いと、乗り換えの連絡のマズさから、午後1時半には到着予定が、なんと4時半となってしまった。大松農場到着時には、薄っすらと夕闇が迫る頃であった。
 大松農場では渡辺氏が待っていて下さった。本日、大松社長は東京へ出かけており、生憎と不在とのこと。渡辺さんが本日の案内役を務めるとの自己紹介であった。事務所のテーブルで、説明が始まる。大松農場の成り立ち、目的、現状について。

大松農場とは?
「そもそもの出発点は、大松秀雄社長が子供の頃、アトピーで大変苦んだために、『一切の添加物、保存料等の合成化学物質を含まない健全な玉子』を作ろうと一念発起したことだった。
 現在、日本の鶏の95パーセントが、オランダ、ベルギー、ドイツ、フランス等の外国産種となっている。大松農場では、35年も前から在来国産種の育成に努めてきた。国産の非遺伝子組み替え雛の入手と、育成による国産種の保存により、鶏肉と玉子の美味さの維持と、安全性を確保してきた。
 さらに、ホテルから回収された圧縮残飯を鶏糞と混ぜ、地元で採集された土壌菌で醗酵させ、再生有機肥料とし、収穫された野菜を鶏の餌に回す、日本型有機自然循環農法による地域共同体の育成と、生産物のロスを無くす、循環効率の上昇を目指してきた」と言う。
 ここには、「食の安全と国産自給」と言う、やっと最近になって日本でも最重要視されてきた問題が、35年も前から提起され続け、その実践のための長い戦いの歴史があった。安全な地玉子を供給するということは、経営も含めて容易なことではなかったはずだ。

「地」玉子とは何か?

地鶏
 玉子を生む鶏が、環境及び人的汚染をされていない、正統な国産鶏であること。
 鶏は、岐阜県にある、国産鶏を日本の風土の中で育種改良してきた優良企業の「(株)後藤孵卵場」から入手する。生まれたばかりのヒヨコの状態で購入、輸送させ、国産鶏を雛から一貫して自社飼育してゆく。この国産雛(ゴトウ「サクラ」、「もみじ」種)は、非遺伝子組み替え雛で、サルモネラ検査をパスした安全な鶏である。一貫飼育による、飼料と環境との循環に一貫性が保たれている。化学消毒の不要、抗生物質、合成抗菌剤の非投与による自然生命力と健康の維持をめざしている。
飼料
 鶏の飼料を徹底的に点検し、不良品、添加物、抗生物質等の薬剤の使用、遺伝子組み替えなど、人的操作をほぼ完全に排除している。
環境
 鶏舎は開放型にし、太陽、風が自由に取り入れられ、ストレスが発生しないようにしている。
産卵期間
 延長するための強制換羽は一切しない。1年間で全て取り替える。
 以上の条件のもとに産卵された卵を「健康で安全な地玉子」とする。
と言う概要をつかんだ後、鶏卵農場を案内して頂く。まず鶏の餌料を見せてもらうことになった。隣の鶏舎にはもう明かりが入っていた。
大松農場が使用する安全な自家製配合飼料
1)塩~メキシコ産岩塩を沖縄の井戸水で溶かし、精製したもの。
2)とうもろこし~米国農業者との直接信頼関係により、素性の確実な厳選素材の使用。
3)大豆粕~植物性タンパク質として有効。米国中西部産を日鶏連を通じて購入。
4)唐辛子~鶏の食嗜好性、抗病性を増し、食欲増進をはかる。中国産を使用。代替化学品は用いず。    
5)魚粉~国産品。原料魚の鮮度保持が勝負。酸化防止剤不使用。釧路、銚子産である。
6)ビール酵母~エビオスの味がし、腸内醗酵と消化バランスを改善、促進する。
7)ガーリック~抗菌、強精、整腸作用に有効で、無投薬管理上重要。中国産。
8)ルーサン~天然の乾燥牧草。消化を増進、整腸作用がある。卵黄の黄色の素となる。
9)天然ミネラル~山形県産、天然ミネラル粘土鉱物を使用。鶏糞の臭いを消す。
10)殻カキ~カルシウムなどのミネラルを供給。鶏卵の発育維持と、卵殻の品質向上に不可欠で、国産カキガラ、貝化石を使用。宮城県、岩手県から購入。
11)飼料用玄米~タンパク質の組成がよく、鶏体と卵に有効。
12)ごま油~良質の植物性タンパク質で、風味が強く、餌の豊かさを保つ。中国産ゴマを使用。
13)生米糠~天然ミネラル、ビタミン、油脂と良質の繊維を含み、体力増強に効く。地元農家、米屋から購入。

◎ 1年を4回に分けて逐次ヒヨコを購入し、育ててゆく。6ヵ月で親鳥となり、産卵を始め、12ヵ月後に食肉用として処分する。約2.2キロの鶏が1羽たったの20円で売却される。玉子採りの鶏の身肉は固いが旨みがあり、鍋などの出汁としては、見事な旨みを抽出することが出来る。肉採りの鶏は成長が早く、肉に脂肪分が多く含まれている。(大松農場では50日かけて500グラムから600グラム。ブロイラーでは50日で3キロに成長させてしまう。)

◎養鶏には、1)平飼い養鶏、2)放し飼い養鶏、3)窓付きケージ養鶏と、4)窓なしケージ養鶏とがある。
1)平飼い養鶏
 平地の専用鶏舎のなかで飼育され、雌の中に雄を10対2の割合で放つことによっ て有精卵が産まれる。
2)放し飼い養鶏
 野外で自由に放し飼いされ、雌の中に雄を10対2の割合で放つことによって有精 卵が産まれる。  
3)窓付きケージ養鶏
 縦2段に渡された窓付きの専用鶏舎は、太陽光線と自然の空気と風通しの中でストレスが発生しないようにして飼育されたもので、鶏冠(とさか)が赤い色をしている。
4)窓なしケージ養鶏
 通常縦7から8段の窓なし鶏舎で飼育され、鶏冠が白くなってしまっている。窓なしのケージ養鶏の卵は20から30パーセント、サルモネラ菌を保有し、出荷前に洗浄、紫外線、オゾン殺菌が義務付けられている。本来は洗浄しないほうが卵は長持ちする。ちなみに、窓なしのケージ養鶏の肉は産業廃棄物扱いとなり、売り物とはならず、逆に引き取り料をとられることになる。

◎同面積の鶏舎で、縦2段の窓付きケージ養鶏の大松農場ではわずか6万羽の鶏を飼育し、毎日5万個の有機卵が生まれる。通常の窓なしケージ養鶏の8段からの大量生産鶏舎では50万羽の飼育がなされている。

◎玉子の旨さの適正なサイズ
 玉子のサイズには、MS、M、L、LL、LLLの5種類がある。若い鶏はMサイズを産む割合が非常に高い。このサイズは生命力が強く、黄身、白身の盛り上がりが見事で、たんぱく質が多く、旨み・こくに富んでいる。身体の成長と共に、L、LLサイズを産む確率が大きくなる。Lサイズは大人の1人分の量として適量であるために使い勝手がよく、一般的に人気がある。   MSサイズは小さいために使い勝手が悪いのだが、栄養分、旨み成分は最も豊富なものを持っている。春美鮨では現在、「赤玉“もみじ"」のMサイズを使用している。

◎最高級、赤玉鶏“もみじ”と赤玉“もみじ”とは?
 岐阜県にある(株)後藤孵卵場の赤玉鶏は、国産唯一の赤玉鶏で、長年にわたる育種改良によって抜群の強健性と、風味豊かな高品質卵を産む鶏として高く評価されてきた。赤玉鶏“もみじ”は、赤玉鶏の2品種間交配から産まれ、産卵された赤玉“もみじ”は卵の味と卵質面に優れ、養鶏場での総合経済性にも優れる最高級の鶏であるが、白色レグホンよりもはるかに出産率が落ちるために、高値となってしまう。

◎強制換羽(かんう)による卵質の改良・向上と産卵期間の延長化
 8月頃の卵質が落ち、売れ行きも悪い頃に、年長の鶏に強制的に餌絶ちをすることによって、身体に過剰な負担をかけると、リスクも大きいのだが、羽根が生え替わって若返り、卵質も向上し、卵殻の変形も矯正される。しかし体力の衰退の時点で病気にかかり易く、とくにサルモネラ菌に感染する確率が高くなるため、危険な作業として禁止する養鶏場が増えている。

◎赤色殻の玉子~赤玉鶏の雄、雌から産まれる。

◎白色殻の玉子~白色レグホンの雄、雌から産まれる。

◎中間色の赤色殻玉子~雌の赤玉鶏と雄の白色レグホンから産まれる。

◎大松農場での有精卵と無精卵の味覚上の違い~甘み、粘性、色合い等、微妙な差異があるのだが、鮨屋が調味した玉子焼きの旨さとしては、両者の差異は全く感じられない。

◎ヨード卵は、餌に乾燥カジメなどの海藻を添加しただけのもので、不当な高値で売られている。

◎卵の色と旨さの関係~スイスのロッシュ社による配合飼料は、飼料種類によって15色の黄卵色を自在に発色させることが出来る。天然自然の卵色は8番前後の色となる。美しい夕焼けの赤黄色の発色は、単に飼料配合によるもので、旨さとは全く関係がない。

◎房総地どり
 千葉県が開発し改良し、大松農場の大松秀雄氏が組合長の旭愛農生産組合が飼育を引き受け、現在2万羽ほどが手がけられている。高品質と徹底した安全管理のもとに、冷凍品の流通を認めず、出荷回数、出荷量が少ないために県内の生協が出荷先の中心となっている。
 広い鶏舎で放し飼いにされ、ブロイラーの倍の飼育期間を与えられ、柔らかい肉質と適度の歯応え、旨み成分のイノシン酸の含有量が多い高品質の鶏肉として、千葉県の「地産地消」のモデルとして期待されている。

 病原性大腸菌O-157、狂牛病などの伝染性の病気の発生、添加物・保存料等の環境ホルモン(内分泌撹乱化学物質)によるアトピー性皮膚炎等のアレルギー反応、癌細胞の発生等、多種多様な生物達の異変にみられる、食と環境の破壊のなかで、食の安全性が近年特に声高に叫ばれている。大松農場の大松秀雄氏は35年も前から『食は命なり』と全ての合成化学物質の使用中止と、日本型の有機自然循環農法による地域共同体の育成を目指してきた。その結果が健康・安全・安心を標榜する「大松農場のたまご」の誕生であった。
 国産鶏を雛から一貫飼育、開放型の優良産卵環境のもとに、自家配合手造り有機飼料による完全有機飼育国産鶏による安全な玉子であった。
 調査、研究、机上の理論ではなく、この大松農場には食の安全のための見事な実践の歴史があった。
「安価な大量生産品の玉子」の一般的な流通の中で、多くの人手と高い生産コストのかかる高価な玉子を、「食の安全と美味の追求」という真摯な姿勢のもとに、消費者の利益を優先し、極力安価に供給している。しかし、大松農場の理念は、まだまだ一般の消費者の間に十分に理解され、浸透されているようには見えない。ヨード卵のような多大な宣伝によるコマーシャルべースに乗ることを拒否しているからだ。        平成15年12月25日

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すし屋のお茶(あがり)

 月2回発行「サライ」14号(7/15)の特集テ―マ「苦み」の中で、すし屋のお茶の苦みについての取材を受ける。
 これを機会にすし屋の使用する煎茶である、芽茶、粉茶の旨み、甘み、苦み、渋み、香り、温度について調べることになった。
 もの心つく頃からの記憶の中で、長山家には急須が全く無かったような気がする。
  お茶は竹編みの茶漉しにお茶の葉を入れ、上から即席に薬缶、ジャーから熱湯を注いで煎れていた。これは見事にすし屋のお茶の入れ方であり、お茶は粉茶か芽茶だったのだろう。
  このお茶の煎れ方は、熱湯を注いだだけで、直ぐにお茶が飲めるという、気短な江戸っ子気質にはぴったりの煎れ方であった。このお茶の煎れ方こそ、江戸前すしの世界で伝統的に用いられてきた最も便利な方法であった。
 では、江戸前すしのお茶とは、どのような旨さと香りを持ち、握りすしを食する中でどのような働きと意味を持っているのだろうか。

日本茶と緑茶、煎茶と粉茶、芽茶の関係について

日本茶とは緑茶のこと
 お茶は若葉の加工方法によって緑茶、烏龍茶、紅茶の三種類に大別されるが、元は同じ樹から摘んだ葉で作り、加工方法を変えるだけで、全く違ったお茶になる。茶の葉を人工的に醗酵させて作ったのが烏龍茶であり、紅茶である。醗酵をさせずに作ったのが緑茶で、日本茶とは緑茶のことを言う。

緑茶

 緑茶には、煎茶、玉露、抹茶の原料となるてん茶、番茶などがあり、煎茶、玉露から粉茶、芽茶、茎(くき)茶が作られる。
煎茶
  煎茶は日本で生産される80%を占める緑茶の代表で、蒸した葉をホイロと呼ばれる乾燥機の上で乾燥させながら、揉んで捻って細長い形にしたお茶のこと。爽やかな味と香り、ほどよい甘さと渋みがあるのが上質で、直射日光に長く当たっていた晩摘みのものほど渋み成分を多く含む。
玉露
 新芽が伸び始めた頃、茶園に覆いをして直射日光をカットする。鮮やかな色合いと豊潤な風味を持つ。
抹茶
 覆いをして直射日光を避けて育てた茶葉を蒸した後、揉まずに開いたまま乾燥させ、石臼で微粉末にしたもの。

芽茶、粉茶、茎(くき)茶

 煎茶、玉露などの「本茶」と呼ばれる商品を作るときに切れ端となって取り除かれた「出物」から作られた副次的な緑茶のため、本茶が上等であれば出物のお茶の味も良く、値段が安い割りには質の良いお茶の味を愉しめる。

粉茶

「出物」を篩(ふる)いにかけて出た粉だけを集めたお茶。芽茶と一緒になった粉茶もある。竹の茶漉しや金網の入った急須を使い、同分量の茶葉を用いて煎れると、普通の「本茶」よりもかなり濃く出てしまうことになり、量を少なめに加減する必要がある。煎茶特有のきりっとした渋みが好みの場合には熱めのお湯で間合いをさっと短くする。
芽茶
 お茶の精製加工の中で、蒸した茶葉を揉捻(もみ、ひねる)する際に、芽先の部分が捻(ひね)り落ちた部分で、品質から見れば茶葉の部分の最上価値部分で、旨みが凝縮している部分。芽茶の葉は硬くて開きにくいため、抽出の時間を粉茶よりも1分ほど多く見ることになる。
 煎茶特有のきりっとした渋みが好みの場合には熱めのお湯で間合いを少し短めにする。

すし屋のお茶は粉茶、または粉茶と芽茶のブレンド

粉茶、芽茶の特長
(1) 茶漉しに人数分の分量を入れ、上から直接に熱湯を注ぐと、簡単にお茶の渋み、苦み、旨みが抽出される。簡便で、熱々のお茶を、人数の多寡に応じて、すぐにいれることができる。
(2)粉茶、芽茶は煎茶から作られる。煎茶の製造工程の中で発生する屑茶を精製選別したもので、本来の煎茶よりも安価でありながら、同等あるいはそれ以上の美味さを味わうことができる。
(3)熱々のお茶の渋み、苦み、旨みが、何種類ものすしを食べる時に、口中に残る前のすし種の生臭み、脂、残香を瞬時に洗い流し、さっぱりとしてくれる。
 では、爽やかな香りと、甘み、旨みと淡い渋みを持つ上級煎茶の精製選別茶である粉茶、芽茶を高温でいれると、何故、苦渋みの効いたお茶となるのだろうか?

渋みの元…カテキン
 従来は広義のタンニンの名で知られていたが、現在では抽出したお茶の渋みや色のもとになり、香気の一部にも関係するカテキン類として分類されている。晩摘みの葉ほど含有量が多くなる。カテキンがお茶に浸出する度合いは、お湯の温度に影響され、高温ほど多く浸出するため、渋みの強いお茶となる。
苦みの元…カフエイン
 お茶の苦みは「サポニン」を主体として、それにカテキンの渋みやカフェインも関与して苦渋みとして伝わる。緑茶に含まれるカフエインは、独特の苦みを作っている。コーヒーよりも2倍から4倍の含有量があり、熱湯によく溶け、冷水には溶けにくく、浸出の度合いは温度と抽出時間によって大きく左右される。高温で、長い間合いのものほど苦みが強くなる。
  苦みをもった飲食物は極めて少なく、人間だけが利用する領域のもので、薬として利用することが多い。苦みは、人体の臓器ことに心臓にとっては不可欠のものとなる。
旨みの元…テアニン
 緑茶の中に多く含まれるアミノ酸で、緑茶の旨み、甘みを決める成分となり、玉露や上級煎茶の味を決定付ける。
 緑茶の味は、基本的に渋み、苦みを構成するタンニン系のカテキンとカフエイン、旨み、甘みを構成するアミノ酸系のテアニンが、お茶の中に浸出される量のバランスによって決まる。しかもこの三つの成分は、お湯の温度に影響されやすい性質がある。
 カテキンとカフェインは高温で抽出しやすく、低温では抽出しにくい。テアニンはどの温度でも抽出できるが、高温では大量に抽出するカテキンによって、テアニンの持ち味が隠されてしまう。煎茶の適温である80から90度のお湯を用いると、カテキンが勝った苦渋みの強い煎茶らしい味になる。
 適温より10から20度低めのお湯を用いると、わずかに間合いの時間を長くとっても、カテキンの抽出が抑えられ、常に浸出しているテアニンの旨みが隠されることなく表面に表れ、甘みを感じる美味しさを味わうことができる。

すし屋の高温で煎れる粉茶、芽茶
 熱湯を直接注ぐために大量のカテキンが抽出されているすし屋のお茶は、コーヒーの2倍から4倍の含有量といわれるカフェインの苦みと、カテキンの持つ渋みと消臭作用が、口の中に残っているすし種の魚介類の生臭さを消し、口の中を爽やかに、さっぱりとさせてくれる。
  さらにいったん煎れたお茶の温度を維持することも、カテキンの効果を持続させるために必要なことで、すし屋の厚手で大きな湯のみも保温の効果を高めている。だから、すし屋の熱く少し苦渋いお茶は、煎茶の大きな旨みであるテアニンの持つ甘み、旨みを覆(おお)い隠してしまうことになる。
 またカテキンの殺菌・解毒作用は食中毒の予防にもなり、江戸前のすし屋は、山葵、酢、生姜(ガリ)、お茶と、四重もの殺菌解毒の食中毒予防策をめぐらしていることになる。

「新茶」と「ひね茶」「番茶」
 茶の葉は、5月初旬の「八十八夜」頃から一番茶が摘まれ、その後、7月初旬頃には二番茶、8月下旬頃には三番茶と順に摘まれるが、煎茶として売られるのは、二番茶までに摘まれた茶の葉となる。
  上級煎茶用は一番茶で、5月に「初もの新茶」として出荷される。一番茶でも遅く摘まれたものは二級品になる。
  二番茶の晩摘(おそづ)みのものと、三番茶以降に摘み取られた枝葉で、茶葉の下部にある大きく硬くなった部分は、番茶や焙じ茶の原料となる。さらっとした味わいと香りが特徴となる。
 最近では「走り新茶」として、鹿児島県や宮崎県から4月中下旬に摘まれたものも現れている。いずれも香りを売り物にしている。新茶の香りは茶の香りでも特殊なもので、若芽の青臭みが喜ばれ、それには春の息吹を感じるし、自然を愛する日本人の心情を表わしており、日本人が持つ嗜好の最大公約数でもある。
  香りを逃さないために、お湯の温度を50度から60度まで下げることと、お湯もカルキなどの臭いのないもので、低温で時間をかけ、じっくりと味わうことが大切となる。
  新茶の命は香りにあり、味については、むしろ「ひね茶」が尊ばれる。1年間低温下に貯蔵されており、茶の成分が完全に熟成されたものには「コク」があり、味に深みを感じさせられる。
 また「口切り新茶」といって茶の湯の炉開きに因んだものがある。冷蔵庫で暑い夏を避け、静かに寝かせた玉露や煎茶は、その間に熟成して深みのある味と香りを持つようになる。これを「後熟の香味」と言い11月の初旬頃に出回る。

お茶の色…水色
 お茶の水色は、最終的には黄金色であり、山吹色を良しとする。そしてその黄金色が重なり合い、そこへ葉緑素も加わったものが、日本茶であり、玉露、煎茶においては黄金色を最上とする。
水質~水道水
 現在、日本で売られているボトルウォーターはナチュラル・ミネラルウォーターも含め、食品衛生法で原則として加熱処理が義務づけられているため、全てが天然水とは言えない。
  カルシウムやマグネシウムなどのミネラルを含んだ自然の水がお茶にあった水とされるのだが、それは軟水、あるいは一時硬水の「飲んで美味しい水」と言うことができる。しかし、湧水、流水、井戸水が飲用水として望めなくなった今、水道水を「誰が飲んでも美味しい水」「お茶に適した水」にかえる工夫が大切となる。
 消毒のための「カルキ(塩素イオン)」が、水を不味くし、緑茶の香りを消してしまうからだ。

カルキ臭の除去の工夫
 水道水が一番美味しいのは、各家庭で洗濯や炊事で盛んに水を使う時間帯となる。日中や夜間の水には鉄分臭さがあり、鉄分はタンニンと結合してお茶の色を黒くし、味も落とすことになる。
(1)水を汲む前に、水道の蛇口を大きく開いてしばらく水を出しっぱなしにしておく。
(2)汲んだ水をすぐには使わず、口の広い器に移して、半日以上汲み置きしておく。
(3)使用するときには、中火以下でゆっくりと完全に沸騰させ、沸騰してもすぐに火を止めずに、しばらく弱火にかけたままにして、完全に沸騰したお湯にする。
 
参考文献
◎松下智著(株)雄鶏社『日本茶、美味しさを極める』
◎小林蕉洞著(株) 講談社『日本茶の贅沢 知られざる味と効能』

うおがし銘茶
 うおがし銘茶の築地本店の店長である杉浦氏に、煎茶の美味しい入れ方を教えていただく。
「もしも、お茶が美味しくなかったら、原因はきっと水です」
 都会では、水道水の水質が年々悪化している。特に雨後や夏期のマンションの水はかび臭くなることがある。

お湯

(1)お湯を完全に沸騰させる…沸騰してからフタをとって、5分間は沸騰させてカルキ臭を飛ばす。
(2)浄水(カルキ飛ばし、カルキ抜き)沸騰電気ポットの使用。
(3)瞬間湯沸し器のお湯は、完全に沸騰していないので、美味しくない。

煎茶

煎茶は、気楽に気軽に
お湯の温度
  十分に沸騰させたお湯を一度煎茶の茶碗に入れ、そのお湯を急須に移せば約80度の温度になる。
お茶の量
  1回5グラムで煎茶茶碗に5杯。一度に10gから15gと沢山使ったからといっておいしく出るわけではない。お茶の量は少なめに。
高温のお湯
  湯を直接急須に入れる場合は、お茶の量を少なめにするのがコツ。高温のお湯だと、旨みよりも苦渋みが強くなってしまう。お湯の量ではなく、お茶の量で加減するするのがこつ。
お茶の色
 美味しいお茶の色は「きいろ、きんいろ」。
 緑色に出るお茶は美味しくない。赤みがかったらお湯の温度が高すぎる。黒ずんだらお茶の量が多すぎ。薄く出たらもう一度急須で煎れなおす。

「緑色のお茶が美味しい」なんて、真っ赤な嘘!!

 新茶の生葉を茶畑から摘んできて、高熱蒸気で蒸し、高温の熱風の中で丁寧に揉みあげると、美味しいお茶の出来上がり。みずみずしい緑色をしていた新芽も、この2時間以上の熱処理によって乾燥され、艶やかな濃緑色になる。
  丁寧に、一生懸命に作ったお茶の色は「きいろ、きんいろ」となる。一般的に言って、緑色に出るお茶は、お茶の出をよくするために、熱処理を強くして作ったお茶が多い。緑色に出るお茶は、青臭くて、味も香りも弱く、美味しくない。最近ではこのお茶に抹茶を混ぜたり、味付けをしてごまかしたお茶が沢山でまわっている。煎茶は煎茶、抹茶は抹茶。美味しいお茶は混ぜる必要がない。

「お茶を冷蔵庫に入れてはいけない」
「冷蔵庫、冷凍庫で保存するとよい」は俗説。
 お茶畑で摘み取った新芽で農家が製造するお茶を「荒茶」と呼ぶ。荒茶はまだ生(なま)作りで、お茶としては飲めない。荒茶を精製し、粉や茎をとって形を整えた後、最終段階に、高温(約100度)のガスまたは電気で約10分間「火入れ」乾燥をして仕上げる。
  この「火入れ」によって荒茶ははじめて「新茶」として誕生することになる。火入れによってお茶はお茶としての味と香りを決定する。荒茶では青臭い香りしかしなかったものが、一たび火入れ作業が完了すると、まさにお茶としての命を与えられ、あのむせかえるばかりの独特の香りをもったお茶になる。
  この火入れ作業は、製造工程の中で、最も重要で、最も難しい仕事となる。この難しい高温作業によって仕上がった美味しい味と香りは、冷蔵庫で冷やしてしまうと弱くなってしまい、おとなしい青みがかった香りに戻ってしまう。さらに冷蔵庫で冷やした水分の少ないお茶を開封すれば、すぐに湿気を吸って変質してしまうことになる。

「うおがし銘茶」では、真空包装した緑茶は、開封すると酸化が急速に進み、お茶の傷みが早いため、出来上がったばかりの「仕上茶」は、真空処理をした後、すぐに特殊ガス充填包装の袋詰加工をする。あの新鮮なお茶の味と香りをそのまま保存するために、特殊な包装資材を使用し、最新鋭の袋詰機によって袋詰する。だから1年間も常温で風味保証をすることができる。


春美鮨のお茶

うおがし銘茶にて購入
(1)粉茶…こがね粉(うおがし銘茶の最高品粉茶)
(2)芽茶…芽茶丸(うおがし銘茶の最高品芽茶)

  1、2を同量づつ混ぜる。すし屋は本来、粉茶だけを使用する店が多いのだが、当店では、あえて芽茶を同量混ぜる。お茶の苦渋みの中にもう少し旨みとコクを持たせるためだ。 湯呑みは長山一夫手作りの厚手で大振りの陶器製だ。
  水道水をアルカリイオン化したものを、アルミの薬缶で十分に沸かす。 3リットル容量のジャーに一度入れ、ワンクッション入った熱湯をステンレス製のメジャーカップの中にセットされた茶漉しに、一人前で3g程のお茶を入れ、熱湯を注ぐ。
  大振りの湯呑み茶碗に移す。お茶の量は湯呑みの2分の1から3分の2程。温度は、結果的に80度から85度。苦渋みが少し出て、色は暗緑色となるが、少し時間を置くと上澄みが黄色みを帯びてくる。 温度が下がると共に旨み、甘みが出てくる。
 ジャ-は常に点検し、よく清浄しておく。不当なお湯の蒸れ臭を発生させないようにする。
 お客様が鮨を食している間には、まめにお茶の差し替えをすることになる。  平成16年6月20日

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